ボイスらの警告 [アート 現代美術]
その中で、「現代美術」の美術家で、デュシャンの危険性を警告したのは、日本人芸術家の工藤哲巳さんとドイツ人芸術家のヨゼフ・ボイス氏でした。
東京芸術大学体育館での公開討論会
それ以外には、警告ではありませんが「デュシャンはそれほど評価しない。・・ピカソあってのデュシャンだから」と言ったのはフランク・ステラというニューヨークの画家です。
アカハラシキチョウ5.5X 1979 F.ステラ
DIC川村記念美術館(千葉)
発表年1979
ステラ氏はK君が芸大の卒論のテーマにした作家です。
ステラ氏はアメリカの作家なので、デュシャ氏への恩義は多少は感じていたかも知れませんが、そういうことを言うのでD.ジャッド氏を激怒させていたようです。
ちなみにステラ氏は、1982年の和光大学での講演会で「宗教的な動機は制作の背景に何かお持ちですか?」という私の質問に対して、「むかしは宗教とかは関心が無かったけれど、最近はその大切さを感じている」と答えられました。その講演会は和光大学の楠本先生の主催で同大学のN君に誘われて、芸大のK君と一緒に参加しました。
それはさておき、デュシャン氏に対して、工藤哲巳さんは
「デュシャンのねずみ講に気を付けろ」
そしてヨゼフ・ボイス氏は
「マルセル・デュシャンの沈黙は高く評価され過ぎている」
と言っています。
クレーフェでデュシャンを批判するヨゼフ・ボイス 1967
それはマルセル・デュシャンが制作や発表をせず、アメリカでチェスばかりしていて、美術関係者が「そこに何か深い意味があるのではないか?」と必要以上に期待や評価をしていたことを批判するパフォーマンスだったと思います。
それはボイス氏らの良心が言わせていると思いました。そこに人間的な温かさみたいなものを感じました。彼らはデュシャン氏や、彼を過大評価する「現代美術」業界の危険性を感じていたと思います。
工藤哲巳さんとは、河合塾だったかで一度お会いしたことがあるように思います。私の先生であった原裕治さんがパリで個展をした時に、温かなメッセージをいただいていたのを思い出します。
ちなみに原先生は、優れた造形力を持つ天才的な彫刻家で、私も大変影響を受け、お世話になった方です。原さんも「現代美術」に制作の軸足を置かれていました。
「『現代美術』以外では美術界ではやはり評価され無い」
と思われているのは感じられました。
東京芸大の油画科の先生で、退官の時に「本当に描きたいものを描いてなかった。」というようなことをおっしゃっていた先生がおられました。「『現代美術』に認められるには・・仕方なくそれっぽい絵にしていた」という意味の話でした。
それは当時の、そして今もある「美術界」の共通認識だと思います。
「美術界は現代美術に」乗っ取られ、「現代美術はデュシャン氏に」乗っ取られ、「デュシャン氏は悪魔に」乗っ取られることによって美術の鑑賞者と制作者は「神から切り離されてしまった」。
そのように見える構造が「現代美術」の周辺にあります。
その始まりにおいては対ソ連邦との「文化戦争」という「大義名分」がありましたが、今はそれはなく、そこに残るデュシャン氏のマイナスの想念が「現代美術」の中に一種の「地獄界」を作っています。
新たなる「無神論・唯物論」国家の中華人民共和国に対して、私たちは新しい「銃弾」を放って行く必要があります。
「時代遅れのあわれな芸術家達よ。君たちに神などをたたえるような(素晴らしい)美術作品は作らせないぞ」
今の「美術界」を見ながら、そのようにデュシャン氏はほくそ笑んでいるのか、それとも、
「もういい加減に美術界を変えてくれ、君たちが私を讃えれば讃えるほど、私は深い地獄に沈んで行くのだ。」
と嘆いているのか、どちらでしょうか。
東京芸術大学体育館での公開討論会
それ以外には、警告ではありませんが「デュシャンはそれほど評価しない。・・ピカソあってのデュシャンだから」と言ったのはフランク・ステラというニューヨークの画家です。
アカハラシキチョウ5.5X 1979 F.ステラ
DIC川村記念美術館(千葉)
発表年1979
ステラ氏はK君が芸大の卒論のテーマにした作家です。
ステラ氏はアメリカの作家なので、デュシャ氏への恩義は多少は感じていたかも知れませんが、そういうことを言うのでD.ジャッド氏を激怒させていたようです。
ちなみにステラ氏は、1982年の和光大学での講演会で「宗教的な動機は制作の背景に何かお持ちですか?」という私の質問に対して、「むかしは宗教とかは関心が無かったけれど、最近はその大切さを感じている」と答えられました。その講演会は和光大学の楠本先生の主催で同大学のN君に誘われて、芸大のK君と一緒に参加しました。
それはさておき、デュシャン氏に対して、工藤哲巳さんは
「デュシャンのねずみ講に気を付けろ」
そしてヨゼフ・ボイス氏は
「マルセル・デュシャンの沈黙は高く評価され過ぎている」
と言っています。
クレーフェでデュシャンを批判するヨゼフ・ボイス 1967
それはマルセル・デュシャンが制作や発表をせず、アメリカでチェスばかりしていて、美術関係者が「そこに何か深い意味があるのではないか?」と必要以上に期待や評価をしていたことを批判するパフォーマンスだったと思います。
それはボイス氏らの良心が言わせていると思いました。そこに人間的な温かさみたいなものを感じました。彼らはデュシャン氏や、彼を過大評価する「現代美術」業界の危険性を感じていたと思います。
工藤哲巳さんとは、河合塾だったかで一度お会いしたことがあるように思います。私の先生であった原裕治さんがパリで個展をした時に、温かなメッセージをいただいていたのを思い出します。
ちなみに原先生は、優れた造形力を持つ天才的な彫刻家で、私も大変影響を受け、お世話になった方です。原さんも「現代美術」に制作の軸足を置かれていました。
「『現代美術』以外では美術界ではやはり評価され無い」
と思われているのは感じられました。
東京芸大の油画科の先生で、退官の時に「本当に描きたいものを描いてなかった。」というようなことをおっしゃっていた先生がおられました。「『現代美術』に認められるには・・仕方なくそれっぽい絵にしていた」という意味の話でした。
それは当時の、そして今もある「美術界」の共通認識だと思います。
「美術界は現代美術に」乗っ取られ、「現代美術はデュシャン氏に」乗っ取られ、「デュシャン氏は悪魔に」乗っ取られることによって美術の鑑賞者と制作者は「神から切り離されてしまった」。
そのように見える構造が「現代美術」の周辺にあります。
その始まりにおいては対ソ連邦との「文化戦争」という「大義名分」がありましたが、今はそれはなく、そこに残るデュシャン氏のマイナスの想念が「現代美術」の中に一種の「地獄界」を作っています。
新たなる「無神論・唯物論」国家の中華人民共和国に対して、私たちは新しい「銃弾」を放って行く必要があります。
「時代遅れのあわれな芸術家達よ。君たちに神などをたたえるような(素晴らしい)美術作品は作らせないぞ」
今の「美術界」を見ながら、そのようにデュシャン氏はほくそ笑んでいるのか、それとも、
「もういい加減に美術界を変えてくれ、君たちが私を讃えれば讃えるほど、私は深い地獄に沈んで行くのだ。」
と嘆いているのか、どちらでしょうか。
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