美術史の99%は「神像」 [アート 現代美術]
一般的な「美術」の歴史はほぼ99%「信仰と神の歴史」で満たされています。
神々をたたえるギリシャ・ローマ、人間復興のルネサンスからバロック・ロココ、印象派までは確実に美術の世界では「神の探求」は続いていました。
ヘルメス 伝プラクシテレス オリンピア博物館
ミロのヴィーナス 作者不詳 ルーブル美術館
受胎告知 ヴェロッキオとレオナルド・ダ・ヴィンチ 1472年から1475年ごろ ウフィチ美術館<
最後の審判 ミケランジェロ 1541年から1547年 システィナ礼拝堂 バチカン
ヴィーナスの誕生 アレクサンドル・カバネル 1863
朝 オットー・ルンゲ
イレーヌ・カーン・ダンヴェルス嬢 ルノワール 1880年
ルノアールは、宗教的なモチーフとしての神や天使を描いた訳ではありませんが、この美しい少女の中に天使の姿を見ていたに違いありません。
ジョルジュ・デ・キリコ 『街の神秘と憂愁』1914
この潜在意識に焦点を当てたシュールリアリズムあたりが「現代美術」に繋がる一つの境目でしょうか。私の中学、高校の頃に一番好きな絵でした。
キュビズムのピカソあたりからはややぐらぐらして来ています。
ここから文字通り《絵画は解体され》て行ったと思います。
泣く女 ピカソ
ピカソが1944年に「共産党員」となり、ピカソの心はカトリックから離れて行ったように推察します
そこからデュシャンまでは案外距離が近いのかも知れません。
階段を下りる裸婦 M.デュシャン
これはデュシャン氏が、ピカソのキュビズムに触発されて描いた作品です。のちに彼をアメリカと繋げる役割を果たすことになる絵です。
この絵はパリで認められませんでした。しかしニューヨークがこの絵と彼を受け入れたことによって、フランス人のデュシャン氏はアメリカに移ります。
フランス人の彼がモナ・リザなどのヨーロッパ芸術を笑いものにすることは、ヨーロッパの文化に劣等感を感じていた当時のアメリカ人にとってある種の痛快さはあったことでしょう。
デュシャン 泉 黒いところがモナ・リザのシルエットに重なるように見える。
しかし第二次大戦後の「東西冷戦」という戦いの中で、ポロック氏やデュシャン氏は、対ヨーロッパ、ソビエト、フランスのパリとの闘いの有効な「武器」になって行きます。
その作品の破壊力の強さもあり、アメリカはヨーロッパとの戦いに勝利をおさめて行きましたが、そこで使った「美術兵器」が、特にデュシャン氏の存在が《核兵器》並みの破壊力があり、その後は美術界にその《放射能汚染》が続いている状態です。
アメリカ美術界は、デュシャン氏の「絵画の終焉」を旗印にして、徹底的に《ヨーロッパ的絵画》を否定してフランスなどの《ヨーロッパ文化に対する文化的な優位》を確立して行きました。
しかしそれによって大切な、尊い価値も一緒に破壊してしまいました。
それは「神聖なる神の像」です。
ギリシャ彫刻のヘルメス像からの美術の流れとしてたどり着いたデュシャン氏の《彫刻作品》を最後に置くことで、「現代美術」が長い美術史の中でどうなっているのか雄弁に語ってくれると思います。
私たちは《物質的には豊か》であっても、少なくとも《美術史的には最低の位置》にいることに気付いていないのかも知れません。
デュシャン「泉」 京都国立博物館
デュシャン「泉」 フィラデルフィア美術館 アメリカ
デュシャン「泉」 パリ ポンピドー美術館 フランス
神々をたたえるギリシャ・ローマ、人間復興のルネサンスからバロック・ロココ、印象派までは確実に美術の世界では「神の探求」は続いていました。
ヘルメス 伝プラクシテレス オリンピア博物館
ミロのヴィーナス 作者不詳 ルーブル美術館
受胎告知 ヴェロッキオとレオナルド・ダ・ヴィンチ 1472年から1475年ごろ ウフィチ美術館<
最後の審判 ミケランジェロ 1541年から1547年 システィナ礼拝堂 バチカン
ヴィーナスの誕生 アレクサンドル・カバネル 1863
朝 オットー・ルンゲ
イレーヌ・カーン・ダンヴェルス嬢 ルノワール 1880年
ルノアールは、宗教的なモチーフとしての神や天使を描いた訳ではありませんが、この美しい少女の中に天使の姿を見ていたに違いありません。
ジョルジュ・デ・キリコ 『街の神秘と憂愁』1914
この潜在意識に焦点を当てたシュールリアリズムあたりが「現代美術」に繋がる一つの境目でしょうか。私の中学、高校の頃に一番好きな絵でした。
キュビズムのピカソあたりからはややぐらぐらして来ています。
ここから文字通り《絵画は解体され》て行ったと思います。
泣く女 ピカソ
ピカソが1944年に「共産党員」となり、ピカソの心はカトリックから離れて行ったように推察します
そこからデュシャンまでは案外距離が近いのかも知れません。
階段を下りる裸婦 M.デュシャン
これはデュシャン氏が、ピカソのキュビズムに触発されて描いた作品です。のちに彼をアメリカと繋げる役割を果たすことになる絵です。
この絵はパリで認められませんでした。しかしニューヨークがこの絵と彼を受け入れたことによって、フランス人のデュシャン氏はアメリカに移ります。
フランス人の彼がモナ・リザなどのヨーロッパ芸術を笑いものにすることは、ヨーロッパの文化に劣等感を感じていた当時のアメリカ人にとってある種の痛快さはあったことでしょう。
デュシャン 泉 黒いところがモナ・リザのシルエットに重なるように見える。
しかし第二次大戦後の「東西冷戦」という戦いの中で、ポロック氏やデュシャン氏は、対ヨーロッパ、ソビエト、フランスのパリとの闘いの有効な「武器」になって行きます。
その作品の破壊力の強さもあり、アメリカはヨーロッパとの戦いに勝利をおさめて行きましたが、そこで使った「美術兵器」が、特にデュシャン氏の存在が《核兵器》並みの破壊力があり、その後は美術界にその《放射能汚染》が続いている状態です。
アメリカ美術界は、デュシャン氏の「絵画の終焉」を旗印にして、徹底的に《ヨーロッパ的絵画》を否定してフランスなどの《ヨーロッパ文化に対する文化的な優位》を確立して行きました。
しかしそれによって大切な、尊い価値も一緒に破壊してしまいました。
それは「神聖なる神の像」です。
ギリシャ彫刻のヘルメス像からの美術の流れとしてたどり着いたデュシャン氏の《彫刻作品》を最後に置くことで、「現代美術」が長い美術史の中でどうなっているのか雄弁に語ってくれると思います。
私たちは《物質的には豊か》であっても、少なくとも《美術史的には最低の位置》にいることに気付いていないのかも知れません。
デュシャン「泉」 京都国立博物館
デュシャン「泉」 フィラデルフィア美術館 アメリカ
デュシャン「泉」 パリ ポンピドー美術館 フランス
2022-08-31 15:25
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