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絶望の哲学者ニーチェ [アート 文学 宗教]

 辺獄(リンポ:地獄界最上部)に、ソクラテスやプラトン、またエピクロスが登場してきたので、そこに長く留まってしまった。
 実際はソクラテスはもっともっと上の方に、エピクロスはもっともっと下の方にいるようです。
 もう一人だけ地獄と縁の深い人で、美術や文芸関係の有名人といえば、何と言ってもドイツの哲学者フリードリッヒ・.ニーチェ(1844-1900)だろう。
 この人のファンも美術界には結構多く、「ニーチェは地獄にいる」と言ったら、「それはニーチェがかわいそう」と言われたことが何度かあった。

 あれだけ大声で「神は死んだ」と言っておいて、どうして天国の門を開けてもらえるだろうか?という話だが、案の定地獄の最深部でもだえ苦しんでいるらしい。
 マルクスを、巨大な工場からモクモクと排出される有害な煙に喩えると、ニーチェは、揮発性の劇薬と言った感じがする。その劇薬の入ったビンのまわり数メートル以内に近付くと、早くも頭がクラクラとしてくる。

それで、写真の代わりに、イラストを載せた。クリックすると・・・・・!

nietzsche1ss.JPG

 インターネットで「ニーチェ」を検索しただけで、「やばい」という雰囲気がすでにして来る。だから逆に人によっては、「ニーチェ」は、ある種の麻薬的な効果があるかもしれない。こういうものを野放しに放っておいていいのか?という疑問は実はある。

 文章、または思想の公害とでも言おうか。こういうことを言うと、「言論弾圧だ」と、お叱りを受けるかもしれないが、実際ニーチェのまわりには、頭痛を引き起こすような何かがあるのだ。短い文章であっても、ニーチェを誰でも読めるようにしておくのは、毒薬の瓶のふたを開けたまま、路上においておくようなもので、危険極まりない。

 マルクスの思想ももちろん毒性があるが、新聞やテレビなどを通して、すでに繰り返し繰り返し人々の目や耳を通して入ってきているので、あらためておかしいとは感じ無いかも知れない。

 それはそれで怖いのだが、太宰治が文学少女の心を捉えるように、ニーチェの毒性は、いっそう強烈に、文学青年の心を魅了する。

マルクスが今いるところ [アート 文学 宗教]

 マルクスを地獄に堕としてしまった。
 ある人々は
「許すまじ、神曲2008!」
と憤慨されているかも知れない。

 僕もマルクスが憎くてやっているわけでない。
 彼はかわいそうな人で、晩年あまり本も売れなくて、エンゲルスなどの友人に経済的援助を受けながら、一人肘掛け椅子に座ったまま死んだ。
 彼は今、本当は地獄にはいなくて、「無意識界」という天国でも地獄でもない世界に「隔離されている」らしい。
 本人の意識は、やや朦朧としていて、「何となく調子が悪い」と感じているようだが、自分が死んだという意識は無いようだ。といって、活発に活動している訳でもないので、「何か変だな」と思っているのだが、何がどうなっているのかは分からないまま、ぼんやりと百年以上が過ぎている。相変わらず、不満だけはいっぱい持っている。

 マルクスや、エピクロスなどの「唯物論」者の考えでは、「死んだらすべて終わる」と考えているので、死んでもまだ意識がある場合は、それを死とは認められないようだ。
 だから、「自分はまだ生きている」と思っているが、何年も食べ物を食べていないし、人とも会わないので、「何か病院で麻酔でも打たれたのか?」「夢が長く続いているのか?」のように思うことが多いようだ。

 マルクスの場合は、「思想犯」として、地獄に行ってもおかしくないのだが、動機が善だったからか、本来天使だったからか、神の慈悲として「無意識」の状態で隔離されている。地獄に行くと、それなりの自由性があって、まわりに悪影響を与えるので、それはさせないようにしているようだ。

 彼はやはり、自分のことをイエス・キリストのような「救世主」だと思っている。

心優しきマルクスの地獄 [アート 文学 宗教]

 現代に生きる人の中で、
「私はエピクロスが大好き!エピクロスさんを地獄に堕とすなんて許せない!」
というほどのエピクロスファンはあまりいないと思うので、彼が「『地獄』で二百年以上も苦しみの中を彷徨った」と書いても、さほど反発を受けることはないと思う。しかし、この人の場合はどうだろうか?

Karl_Marx[1].jpg

 カール・マルクス(1818-1883)。
 ドイツの哲学者で経済学者、共産主義革命を提唱し、世界中で数多くの人が彼の影響の下に生き、そして死んだという意味では大革命家でもあった。
 この人は、今でこそ表向きはすでにヒーローの座からは退いているが、「隠れマルクスファン」は、結構いるのではないだろうか?この神曲2008のメンバーの中にも、
「おいおい、まさかマルクスを地獄に堕とすんじゃないだろうな!?」
という人もいるかも知れない。そういう僕自身も、この人の考え方にかなり影響を受けていた時代があった。
 
 しかし、マルクスの思想は、そのような理想を求める若者の心を静かに蝕んでいく。
 恐ろしい毒薬なのだ。この毒薬を飲むと、自分のことは棚に上げて、社会に対する不満や、成功者や金持ちに対する嫉妬、敵意だけが異常に増していく。

「あなたが苦しいのは、社会の仕組みが悪いからだ。あなたが貧しいのは、あなたが生み出した価値を大企業が吸い取っているからだ。あなたは悪くない。資本主義に問題があるのだ。さあ、世の中を変えて行こう!」

 苦しんでいる時に、優しくそうささやきかけられたら、本来持っている前向きな克己心を投げ出してしまうかも知れない。それをまたマスコミが「そうだ、そうだ」とあおる。

 本人は、人生に光明が差して来た感じになって、気が付いたら"不満だらけの貧乏人”になっていく。これを「地獄」と言わずにいられようか。

 本当に変えなければならないのは、社会や他人ではなく、まず自分自身なのだ。

Karl_Marx[2].jpg

 カール・マルクスは、死後百年以上、「無意識界」で、隔離された生活を送っているらしい。彼は、自分が死んだことすらまだ分からずにいる。

 彼を信じる人がこの世からいなくなり、地獄の再生産がストップするまでは、マルクスは浮かばれないだろう。
 本当に彼の理想に共感するならば、自分を弱者などと思わずに、力強く生きていくことだろう。
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「無意識界」地獄 [アート 文学 宗教]

 このエピクロス氏は、大体二百年くらい地獄にいたらしい。
 どういう地獄か、というと「無意識界」といって、”自分が死んだ事すら分からない世界”だったようだ。
 普通の人間なら、あの世の存在を信じていなくても、食べ物を食べずに何年も平気だったり、誰に声を掛けても聞こえなかったり、ということが数十年も続けば、「いい加減何かがおかしい・・・」と思い始めるのだが、エピクロスのような、筋金入りの「唯物論」者は、その反作用が二百年も続くのだ。

 「死んだら何もかも消滅する」ということを、本当に固く信じていたなら、死んでも意識があるとなると、「俺はまだ死んでいない」と思うらしい。「では、この状態は何なのか?」と自問自答するのだが、答えは得られない。
 しかも彼を信じる人が、次々と彼の後を追って来るのだ。

 問題は、その人が地上で成功していなければ、「俺、何か間違ったかな?」と、反省できる可能性があるのだが、成功してる人は意外と反省ができなくなっている。ここが怖いところである。失敗は人を謙虚にするが、成功は時に人を盲目にもする。

 このエピクロスという人は、結構成功した人のようで、アテネに家を買い、学校を開いて、彼を信じる人たちとの共同生活をしながら、エピクロス学派を広げていった。と言っても、ほぼそこに引きこもって心の平安を守っていたようである。
 学校は、300年後のシーザーの時代もまだ14代目の校長が続けていたらしい。
 それだけ繁盛したとなると、次々と師のエピクロスのあとを追ってお弟子さんが次々と地獄の「無意識界」に直行して行ったであろう。
 指導者が間違った場合は、普通の人が間違えた時以上に反作用が大きくなる。しかもそれが地上で成功すればするほど、死後の苦しみもどんどん大きくなる。まさに地獄だ。それだったら成功などしない方がよっぽどましだろう。

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「神曲」では、地獄篇第三十二歌 コキュートスの氷漬けの地獄が「無意識界」のイメージとしては近いように感じるが、この「無意識界」の部分はほとんど書かれていない。  哲学界や宗教界の指導者で、間違った教えを説いた場合は、仏教では「阿鼻叫喚地獄」という地獄に行く。その先にはさらに「大阿鼻叫喚地獄」というものもあり、そこには仏陀を傷つけたものが行くことになる。

 日本でも、比較的多くの人に影響を与えている解剖学者のY氏なども、霊魂の存在やあの世の存在を否定し、「脳の作用」に帰しておられる。
 僕が非常勤講師をしているN学芸大学でも、数年前にこのY先生をお呼びして講演会をしていただいたが、この方や、この方を持ち上げている方々なども、死後集団で「無意識界」に行くことになるのではないかと心配している。愛ある方なら、彼らのミスリードを止めてあげて欲しいと思う。
 僕は、愛が足りなくて、その講演会に行かなかったが、行った学生に「Y先生の話、どうだった?」と聞いたら、「すみません、眠ってしまいました」との答えだった。日頃は話の最中に眠られると困るのだが、このときは「良く眠った、えらい!」と言ってあげたかった。
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あの世からの催促 [アート 文学 宗教]

 さて、ダンテの「神曲」で、むりやり辺獄(リンポ)の住民にさせられてしまった偉人の中で、一人だけ本当に地獄に行ってしまった人がいるらしい。
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ゼノン、エピクロス、アヴェロエス、ソクラテス  

 この中で、エピクロスは本当に地獄に行ったらしい。
 自分で見てきたわけでもないので、らしい、としか言えないのだが。
 この絵を描いたラファエロも、このエピクロスクロスだけを他のみなさんに背を向けさせている。
 「快楽主義者(エピキュリアン)」とも言われるエピクロスだが・・・。

Epikur[1].jpg

 エピクロスは、紀元前3-4世紀のギリシャの哲学者で、エピクロス派の創始者である。
 彼は、先輩であったプラトンの「霊魂不滅」の考えに対抗して、死んだら何もかも無くなると考えた。
 死に際して、人間は原子の分解をもって亡びてしまい、これによって、人間はもっとも不愉快な死という災いを乗り越えられるのだ、という「唯物論」を説いたのだった。
 彼は「死について恐れる必要はない」と言っている。その理由として、”死によって人間は感覚を失うのだから、恐怖を感じることすらなくなるのであり、それゆえ恐れる必要はない”と主張している。
 
 「死ねば自分という存在はまったくなくなる。」という考え方だろう。
 先日、僕の隣に住むTさんも「人は死んでも魂は生き続けるような気もするし、何にもなくなっちゃうようにも思うし・・・どっちかな?うーんわかんない」と言っていた。(隣人と、そんな話をしょっちゅうしているわけではないのだが。)

 「死んだらすべてが無くなる」という考え方は、僕には理解する事が難しい考え方なのだが、逆にエピクロスにとっては、「肉体が死んだ後も,魂が存在し続ける」という考え方はなかなか理解できなかったのだろう。

 人が死んでも魂は生き続けるかどうか、について、僕にはこんな経験談がある。
 僕の父は、自殺だったのだが、死後しばしば僕のところに来ていたような気がする。
 「神曲」の中でも、”自殺者の魂は、永遠に木となって・・・・”と書かれているように、自殺者はキリスト教では天国には行けないことになっている。
 それで、僕も父を何とか助けてあげなければ、と考えて、いろいろ手は打ってみた。何かというと、死んだ人を弔う行事で、いわゆる「供養祭」なのだが、そこで供養をすると明らかにあの世の父の方に反応がある感じがした。いや、本当のことを言うと、あの世の父の方が、僕に供養をして欲しくて、催促に来ていた、といった方が正確かもしれない。

 僕としては、父の自殺のことは、一刻も早く忘れたくて、申し訳ないけれども思い出さないようにしていた。 しかし、時々こちらの意に反してとても強く思い出される事があるのだ。そんな時は、
「やだなー、困ったなー」
と人知れず苦しんでいたのだが。
 そんな時、ふとカレンダーを見ると、「春分の日」が数日後にあったり、「お盆」が近かったり、というように、春や秋、またはお盆の供養祭の行事の直前に「父の訪問」がある、ということが父の死後数年間の間に何度か続いた。
 それで、
「ああ、そうだったね、供養だったね、忘れてた、分かった」
という感じで供養してあげると、スッキリした感じで
「忘れんでくれよー。頼むぞー。」という父独特の言い方というか感じを残して毎回終わるのだった。

 こんなことを五年くらい続けただろうか。ある時からそういうことが無くなって行った。それで僕は、
「お父さんは、やっと天国に行ったのかな」
と思ったのだ。
 そういうことなどもあるので、「死んだら何もかも無くなる」ということはなかなか信じられないのだ。
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地獄に落とされた偉人の名誉回復 [アート 文学 宗教]

 その後ダンテは、ヴェルギリウスと共に、ホメロスらの高名な詩人たちに出迎えられ、楽しい時を過ごす。
 ダンテは六番目の詩人として彼らの仲間に招きいれられた。

 ”まわりを、美しい小川が流れる、ある高貴な城の中には、シーザーや、アリストテレス、

 ソクラテス、プラトンまでもいる。デモクリトス、タレス、キケロ、セネカ、ユークリッド、アヴェロエス・・・・

 こうした学者すべてについて存分に述べる事は出来ない。

 詩題が長く、私はせかされているから、どうしても事が余って舌足らずになってしまうのだ・・・

 六人の連れはまたもとの二人に戻り、新しい別の道を通って聡明な先達は私を導く。
 
 静寂の中から出て、ゆらめく大気の中に入る。

 そして私は光明のない場所に来た。”

 この場面の描写を読んでいると、そこは地獄と言うよりも天国。  お城の中は静かで光明に満たされている。まさに天国の情景だ。  しかも、そこにいるのはソクラテスやプラトンらの偉大な哲学者。  それでも、イエス・キリスト以前に生まれた人は、たとえどれほどの偉人であっても、天国には行けない、というのがキリスト教の教義なのだ・・・。  それをおかしく思ったのは、ダンテだけではない。  ラファエロが描いた「アテネの学堂」では、地獄に落とされてしまった偉人たちが、勢ぞろいで登場し、名誉回復を受けているようにも見える。めでたし、めでたし。

 ダンテの「神曲」で、地獄の最上部の辺獄(リンポ)にいることになっている偉人たち

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プラトンとアリストテレス 

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ユークリッドとプトレマイオス 

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アヴェロエス(白いターバンの人)

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ラファエロ アテネの学堂(全体像) 1509 Fresco Stanza della Segnatura, Palazzi Pontifici, Vatican

 ちなみにラファエロは、別の壁画の中にダンテの肖像も描いていて、それがイタリアの2ユーロ硬貨のデザインにもなっている。

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ラファエロ 聖体の議論 より 1510-11 Fresco  Stanza della Segnatura, Palazzi Pontifici, Vatican


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洗礼を受けていない偉人たち [アート 文学 宗教]

 ”それを聞いたとき、私の心はひどく痛んだ。

 というのは、とても価値ある人々がこの辺獄(リンポ)の中にいて、

どっちつかずになっているのを知ったからだ。

 ダンテはヴェルギリウスに聞いた。

 「先生、言ってください・・・その人自身の価値なり、他人のおかげなりで、

ここから外に出て祝福される身となった人は、まったくいないのですか?」

 ヴェルギリウスは、ダンテの心をよく理解して答えた。

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ミケランジェロ 「アダムの創造」 1508-12 Fresco Cappella Sistina, Vatican

 「私がここに来て間もない頃だったが、勝利のしるしをつけた力ある方がここに来た。

 その方は、アダムや、その息子のアベル、ノアや、モーゼ、アブラハムやダビデ・・・

その他大勢の人を、ここから連れ出して祝福を与えた・・・

それ以前には、救われたものは誰もいないのだ。」”

 ちなみに、ミケランジェロのこの大天井画「天地創造」は、依頼主としては、本当はここにキリスト教の十二使徒を描いて欲しかったらしい。それをミケランジェロが説得し、画題を変えさせたそうである。  ミケランジェロくらいになると、依頼主よりも描くべきものが良く分かっていたのだろう。われわれ凡人画家が、それをまねすると、「失業」という地獄が待ち受けている。

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ミケランジェロ「モーゼ」S. Pietro in Vincoli, Rome 1515

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ミケランジェロ 「ダビデ」Galleria dell'Accademia, Florence 1505

地獄篇 第四歌 洗礼を受けていない罪 [アート 文学 宗教]

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 G・ドレ 神曲 地獄篇 第4歌 

 この場面は、キリスト教の信仰を持たなかった人々の住む地獄である。

 雷鳴で目を覚ましたダンテにヴェルギリウスは言う。

「この下界にいる人たちの苦悶を思うと、私の顔に憐れみの色が浮かぶのだ。それをおまえは恐怖と勘違いしているが・・・急ごう。」

 そこは、辺獄(リンポ)というところで、そこにいる人々は、先ほどの人とは違い、ため息をついていたが声を上げて泣くことはなく、悲しみはあっても拷問や責めはなかった。

「彼らは罪を犯したのではない。徳のある人々かも知れぬ。だがそれでは不足なのだ。洗礼を受けてないのだ・・・」

「実は自分もその一人だ。こうした落度のために私たちは破滅した。他に罪は無いのだが・・・」

とヴェルギリウスは言った。

さて、この場面、どう思われます?

あの世はあるのか? [アート 文学 宗教]

今、「神曲」を、読んでみると、
「面白い」「怖い」「あの世って本当にあるのかなあ?」「ぜひ天国に行かなきゃ!」
という感じと共に、
「もしこれが本当だったら、なぜ学校でちゃんと教えてくれないのか?」「世のえらい先生の中には、『あの世はない。人間は死んだら灰になっておしまい』と言っている人もいる。いったいどっちなんだ。」
という疑問も生じるはずだ。

 本当はいったいどっちなんだ!?
 世の大人は、ここのところをちゃんと知らなければ、子供を正しく育てる事が出来ないだろう。
 同じように、画家も、ここのところを知らなくては、正しい絵は描けないはずだ。

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ハンス・メムリンク 最後の審判

 このハンス・メムリンクの絵は、天国と地獄が右と左に明確に分けられている。
 分けすぎではないか?と思えるくらいはっきり分けている。
 問題は、この世界観が本物なのか?ということだろう。

 ところで、真ん中の人は誰?
 日本ならさしづめ閻魔大王だが・・・

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フラ・アンジェリコ 最後の審判

 先ほどの真ん中の人物はミカエルらしい。次の絵ではイエス・キリストが中央に座っている。

 このあたりの情景が、本当に天国にこのままあることを信じられるか?と聞かれたら、現代人は100%のYes とも、100%のNo とも言えないところだろうと思う。


ハンス・メムリンク(Hans Memling, 1430年/1440年頃 - 1494年)は、15世紀フランドルの画家。ヤン・ファン・エイク、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンに続く世代の北方絵画を代表する画家である。宗教的な主題を、華麗な色彩と、北方絵画特有の細部までゆるがせにしない徹底した写実表現をもって描いた。

フラ・アンジェリコ (Fra Angelico  1400(1398)-1455) 15世紀前半のフィレンツェを代表する画家である。フラ・アンジェリコ(天使のような修道士)という通称のとおり、その作品は清らかで深い精神性に満ちている。「受胎告知」をはじめとして、多くの天使の絵を残した。






「現代美術」地獄 [ドイツ ケルン 地獄絵]

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ミケランジェロ 「最後の審判」より バチカン・システィナ礼拝堂

 僕がドイツのケルンに住んでいたのは、今からもう20年近く前の話だ。1989年春から94年にかけてである。
 ケルンは当時、ニューヨーク、ロンドンとならぶ「現代美術」の中心地だった。

 「現代美術」は、僕にとって地獄だった。
 しかし、その地獄の中でどうやって生きていこうかと考えていたのが、ケルンに住んでいたときだ。
 それは地獄と言うより「不毛」といった表現の方が正確かもしれない。
 「現代美術」の世界では、僕が良いと思っている価値観は、ほとんどすべて否定されていた。
 ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、そしてダンテの「神曲」などのルネッサンス芸術は、”乗り越えられるもの”というよりは、むしろ”無視すべきもの””否定すべきもの”として扱われる傾向があった。

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アド・ラインハルト 「抽象絵画」1960-66 川村記念美術館

 そこでは、こういう絵が「素晴らしい」とされていた。これは「現代絵画」の古典的作品である。この絵は、画像のミスではなく、一面グレーに塗られている抽象絵画だ。

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ジャクソン・ポロック「No.5,1948」1948

 またこれは、現在までに、市場での最高価格の約163億8000万円という値で取引されたアメリカのジャクソン・ポロックの抽象画だ。 (2006年6月)

 これらの絵画が、ピカソやマチスなどのヨーロッパ絵画よりも、時に高い評価を受ける世界が「現代美術」という世界であった。
 ところで、前項で紹介した シュテファン・ロッホナーの絵の部分と、J.ポロックの抽象画が、どこと無くダブって見えるのだ。これは、僕の中にまだ残っている「現代美術」に対する恨みの念がそう見せているのかも知れない。
 この部分では、僕ももう少し心の浄化が必要かもしれない。
 
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