あいちトリエンナーレ2019 4 [アート 現代美術]
「あいちトリエンナーレ2019」は、約100年前の1917年のニューヨークのアンデパンダン展でのデュシャン氏の事件を彷彿とさせる「炎上」事件となりました。
マルセル・デュシャン氏は、その事件によって「20世紀最大の芸術家」という称号を得ました。
その時彼は「便器」を出せば問題になるということが分かった上で、「盲目の男(Blind man)」という名前の前衛的な美術雑誌の発刊をあらかじめ準備しました。
彼の「便器」の「便器」は予想通り理事会で「展示できません 」ということになり、デュシャン氏を含む数名の理事がその決定を受け辞任、デュシャン氏は用意していた「盲目の男」にその顛末に写真を添えて第一号を発行しました。
人々が見たのは、「盲目の男」に掲載されたスティーグリッツ氏が撮影した「噴水」と題する「便器」の作品の写真だけでした。つまりデュシャン氏の「噴水」を見た観客は誰もいなかったのです。
デュシャン氏が発刊した前衛美術雑誌 盲目の男 1917年
「盲目の男」は、その第一号で役目を終え廃刊になります。
またこの時のアンデパンダン展では、もう一つの事件がありました。
それはデュシャン氏の「チューリップ・ヒステリー・コーディネーティング」という作品をめぐる事件です。
1913年に開催されたアーモリーショーというヨーロッパの前衛絵画を紹介する大規模な展覧会に出品されたデュシャン氏の「階段を下りる裸婦 No.2」という作品は、マスコミから「レンガ工場の爆発」と非難され、それを見たセオドア・ルーズベルト大統領からも
「うちの絨毯の方がこの絵よりも間違いなく優れている。」
とひどいことを言われながらも、一部の前衛美術ファンから熱狂的に支持されていました。
階段を下りる裸婦 No.2
M.デュシャン 1912
そのデュシャン氏の新作がこのアンデパンダン展で出されるという噂があったのですが、「チューリップ・ヒステリー・コーディネーティング」という絵は、結局展覧会場にはありませんでした。
おそらく初めからその絵はなく、ニューヨークの前衛美術に見せるヒステリックな熱狂と、オランダのチューリップの球根を巡って起きたやはりヒステリックな熱狂とを掛け合わせたデュシャン氏のレトリックだったのでしょう。
この一連の流れを見て行くと、デュシャン氏の天才的な着眼点の奇抜さや手際の良さと同時に「美術に対する複雑な感情」があるのに気付きます。
その複雑な感情の中には「美術の世界で成功したい」という気持ちと同時に「それが何になるのだ」という人生そのものや世の中に対する疑問のようなニヒリスティックな心も見えます。
それはデュシャン氏を認めなかった祖国フランスのパリに対する恨みのような気持ちもあるでしょう。
そしてデュシャン氏と同時代の画家であるピカソに対する嫉妬心のようなものもあったかも知れません。
またパリとは正反対に彼を暖かく受け入れてくれるニューヨークに対する感謝の気持ちもあったと思います。
さまざまな複合的なものがあったでしょうが、心から納得の行く答えや満足が得られないデュシャン氏の苦しみがそこにあったように思われます。
彼はニューヨークに住んでいても、おそらくはパリを愛していたと思います。と同時に反感もあったと思います。
そして彼の内面で、一番大きな葛藤と反発があったのはおそらくキリスト教のことだったのではないかと私は思っています。
デュシャンのそのような複雑な感情は、その後のアメリカ合衆国の超国家的な思惑と合体して「20世紀美術史」に壮大な1ページを残して行くことになります。
それはデュシャン氏の故郷のパリの芸術の否定という形で現れました。
特にヨーロッパの絵画を《全否定する》という未だかつて見たことが無いような「壮大な美術運動」となって全世界で展開して行きました。
マルセル・デュシャン氏は、その事件によって「20世紀最大の芸術家」という称号を得ました。
その時彼は「便器」を出せば問題になるということが分かった上で、「盲目の男(Blind man)」という名前の前衛的な美術雑誌の発刊をあらかじめ準備しました。
彼の「便器」の「便器」は予想通り理事会で「展示できません 」ということになり、デュシャン氏を含む数名の理事がその決定を受け辞任、デュシャン氏は用意していた「盲目の男」にその顛末に写真を添えて第一号を発行しました。
人々が見たのは、「盲目の男」に掲載されたスティーグリッツ氏が撮影した「噴水」と題する「便器」の作品の写真だけでした。つまりデュシャン氏の「噴水」を見た観客は誰もいなかったのです。
デュシャン氏が発刊した前衛美術雑誌 盲目の男 1917年
「盲目の男」は、その第一号で役目を終え廃刊になります。
またこの時のアンデパンダン展では、もう一つの事件がありました。
それはデュシャン氏の「チューリップ・ヒステリー・コーディネーティング」という作品をめぐる事件です。
1913年に開催されたアーモリーショーというヨーロッパの前衛絵画を紹介する大規模な展覧会に出品されたデュシャン氏の「階段を下りる裸婦 No.2」という作品は、マスコミから「レンガ工場の爆発」と非難され、それを見たセオドア・ルーズベルト大統領からも
「うちの絨毯の方がこの絵よりも間違いなく優れている。」
とひどいことを言われながらも、一部の前衛美術ファンから熱狂的に支持されていました。
階段を下りる裸婦 No.2
M.デュシャン 1912
そのデュシャン氏の新作がこのアンデパンダン展で出されるという噂があったのですが、「チューリップ・ヒステリー・コーディネーティング」という絵は、結局展覧会場にはありませんでした。
おそらく初めからその絵はなく、ニューヨークの前衛美術に見せるヒステリックな熱狂と、オランダのチューリップの球根を巡って起きたやはりヒステリックな熱狂とを掛け合わせたデュシャン氏のレトリックだったのでしょう。
この一連の流れを見て行くと、デュシャン氏の天才的な着眼点の奇抜さや手際の良さと同時に「美術に対する複雑な感情」があるのに気付きます。
その複雑な感情の中には「美術の世界で成功したい」という気持ちと同時に「それが何になるのだ」という人生そのものや世の中に対する疑問のようなニヒリスティックな心も見えます。
それはデュシャン氏を認めなかった祖国フランスのパリに対する恨みのような気持ちもあるでしょう。
そしてデュシャン氏と同時代の画家であるピカソに対する嫉妬心のようなものもあったかも知れません。
またパリとは正反対に彼を暖かく受け入れてくれるニューヨークに対する感謝の気持ちもあったと思います。
さまざまな複合的なものがあったでしょうが、心から納得の行く答えや満足が得られないデュシャン氏の苦しみがそこにあったように思われます。
彼はニューヨークに住んでいても、おそらくはパリを愛していたと思います。と同時に反感もあったと思います。
そして彼の内面で、一番大きな葛藤と反発があったのはおそらくキリスト教のことだったのではないかと私は思っています。
デュシャンのそのような複雑な感情は、その後のアメリカ合衆国の超国家的な思惑と合体して「20世紀美術史」に壮大な1ページを残して行くことになります。
それはデュシャン氏の故郷のパリの芸術の否定という形で現れました。
特にヨーロッパの絵画を《全否定する》という未だかつて見たことが無いような「壮大な美術運動」となって全世界で展開して行きました。
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