白土舎と天竺塔 [アート 現代美術]
当時、アメリカのニューヨーク、イギリスのロンドン、そしてドイツのケルンが世界の「現代美術」の3大中心地でした。
その時に、私はケルンのあるギャラリーで見た作品がきっかけになり「天竺塔」という作品を制作しました。
そこはアメリカの彫刻家のドナルド・ジャッドをドイツで広めたギャラリーでした。オーナーさんは「ジャッドで成功したおかげで今、若い芸術家を支援できている」と言ってました。
彫刻と言われても「これが彫刻?」と思われるかも知れません。
無題 ドナルド・ジャッド 1989
私が制作のヒントを得た作品はこのジャッドの作品ではありませんが、このドナルド・ジャッドはアメリカ「現代美術」の「ミニマリズム」の代表的な作家です。
美しい作品だと思います。
この作品は、私がちょうどドイツに行った1989年に作られたようです。この人は生涯一貫して箱だけを作っています。彼は「絵画の終焉(絵画は終わった)」を強く支持しています。
「アメリカ人なら絵画を否定しろ」、みたいな感じです。もちろん「アメリカの画家なら」という意味です。
私は、当時ドイツの義理の父のコネで、イタリアとドイツの古いお城などで天井画などを描く機会がありましたが「現代美術」の制作はやめてました。しかし、そのギャラリーでヒントを得て、久しぶりに自分の作品を作り始めました。
天竺塔より アヴァディア・サン・サルバドール 小川 淳 1992
取材のため義理の父からいただいたローライ・レフレックスの二眼レフを持って、イタリアやギリシャの取材旅行にも行きました。
天竺塔 フォロ・ロマーノ 小川 淳 1992
しかしその制作の途中で「これが完成したら、自分は『現代美術』から離れるだろうな」と思ったのを記憶しています。
1993年「天竺塔」シリーズは完成し、名古屋の白土舎さんで展覧会をしていただくことになりました。
天竺塔より ミストラ/ギリシャ 小川 淳 1993
白土舎さんでの展覧会は、Tさんと森岡先生などの協力で成功し、作品も売れました。
しかし《天竺塔は自分にとっての「現代美術」の卒業制作》というその予感は、意外なものを私にもたらすことになりました。
「天竺塔」の展覧会のために日本に来ていた時にある宗教に出会ったのです。
私が出会ったその宗教は、実は3年前に河合塾の教え子さんを通して一度出会っていて、はじめは興味を持ちましたが、途中で「あまり良くないかな」と思って、どちらかと言えばアンチになっていました。
ただその教え子さんを含む、その宗教をやっていた二人の知人は、当時の私から見てとても信頼できる人でした。
「天竺塔」の展覧会がきっかけとなったその宗教との2度目の出会いでは、私はそれを素直に受け容れられるものがあり、その後の作品の傾向もガラッと変わってしまいました。
青の彼方 小川 淳 1995
その頃、芸大からの友人であるK君は、東京の河合塾で先生をしており、そこで河合塾のIさんと共に私のデッサンや「天竺塔」の展覧会を企画してくれました。信仰に向かおうとしている私を引き留める気持ちも若干あったかも知れません。
また私の教え子で、才能があり慕ってくれていた日大芸術学部のF君からは、宗教に行く私に対して「戦友を失ったようだ」と嘆かれました。
しかし私は、その宗教の信仰との出会いによって、その後「現代美術」から大きく離れていくことになりました。
それによって私の画業は守られて行きました。
その時に、私はケルンのあるギャラリーで見た作品がきっかけになり「天竺塔」という作品を制作しました。
そこはアメリカの彫刻家のドナルド・ジャッドをドイツで広めたギャラリーでした。オーナーさんは「ジャッドで成功したおかげで今、若い芸術家を支援できている」と言ってました。
彫刻と言われても「これが彫刻?」と思われるかも知れません。
無題 ドナルド・ジャッド 1989
私が制作のヒントを得た作品はこのジャッドの作品ではありませんが、このドナルド・ジャッドはアメリカ「現代美術」の「ミニマリズム」の代表的な作家です。
美しい作品だと思います。
この作品は、私がちょうどドイツに行った1989年に作られたようです。この人は生涯一貫して箱だけを作っています。彼は「絵画の終焉(絵画は終わった)」を強く支持しています。
「アメリカ人なら絵画を否定しろ」、みたいな感じです。もちろん「アメリカの画家なら」という意味です。
私は、当時ドイツの義理の父のコネで、イタリアとドイツの古いお城などで天井画などを描く機会がありましたが「現代美術」の制作はやめてました。しかし、そのギャラリーでヒントを得て、久しぶりに自分の作品を作り始めました。
天竺塔より アヴァディア・サン・サルバドール 小川 淳 1992
取材のため義理の父からいただいたローライ・レフレックスの二眼レフを持って、イタリアやギリシャの取材旅行にも行きました。
天竺塔 フォロ・ロマーノ 小川 淳 1992
しかしその制作の途中で「これが完成したら、自分は『現代美術』から離れるだろうな」と思ったのを記憶しています。
1993年「天竺塔」シリーズは完成し、名古屋の白土舎さんで展覧会をしていただくことになりました。
天竺塔より ミストラ/ギリシャ 小川 淳 1993
白土舎さんでの展覧会は、Tさんと森岡先生などの協力で成功し、作品も売れました。
しかし《天竺塔は自分にとっての「現代美術」の卒業制作》というその予感は、意外なものを私にもたらすことになりました。
「天竺塔」の展覧会のために日本に来ていた時にある宗教に出会ったのです。
私が出会ったその宗教は、実は3年前に河合塾の教え子さんを通して一度出会っていて、はじめは興味を持ちましたが、途中で「あまり良くないかな」と思って、どちらかと言えばアンチになっていました。
ただその教え子さんを含む、その宗教をやっていた二人の知人は、当時の私から見てとても信頼できる人でした。
「天竺塔」の展覧会がきっかけとなったその宗教との2度目の出会いでは、私はそれを素直に受け容れられるものがあり、その後の作品の傾向もガラッと変わってしまいました。
青の彼方 小川 淳 1995
その頃、芸大からの友人であるK君は、東京の河合塾で先生をしており、そこで河合塾のIさんと共に私のデッサンや「天竺塔」の展覧会を企画してくれました。信仰に向かおうとしている私を引き留める気持ちも若干あったかも知れません。
また私の教え子で、才能があり慕ってくれていた日大芸術学部のF君からは、宗教に行く私に対して「戦友を失ったようだ」と嘆かれました。
しかし私は、その宗教の信仰との出会いによって、その後「現代美術」から大きく離れていくことになりました。
それによって私の画業は守られて行きました。
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