絵画を終らせている「現代美術」のコード [アート 現代美術]
話は少し戻り、白土舎での二回目の展覧会の作品候補の作品をTさんに見せた時、
「小川君のこの作品は、うちでは展示できない。申し訳ない。」
と言われました。
宗教の影響を受けて私の絵は明るくなって来ていてました。
それは「宗教絵画」でしたが、私はそれも「現代美術の作品」として成立するのではと思ってTさんに見ていただきました。
作品自体はふつうの人が見たらそれほどおかしな作品では無いと思います。
はす 小川 淳 1995
しかしTさんからは
「これでは展覧会は出来ないわ」
と言われました。
それは《絵の上手い下手》とかではなく、「現代美術」で絵画を発表する時の不文律の「コード」(規則・規定)に反しているのです。
ただ不文律なので、どこかに書いてある訳ではありません。書いてあるとしたら、美術史の1912年のところにある「絵画は終わった」というデュシャン氏の文言です。
【絵画は終わった】 1912年、友人のピカビアとパリの航空ショーに行ったデュシャンは、そこで美しく造形された飛行機のプロペラを見て『絵画は終わった。いったい誰がこのプロペラ以上に美しいものを作れるっていうんだ?』と言った。
と言われています。
本当かどうかは分かりません。
ただ実際は、《20世紀アメリカ現代絵画が、デュシャンのその言葉を使って「ヨーロッパ絵画」を否定した》ということです。
アメリカの担当者が、その言葉を必要としていたのです。
バーネット・ニューマン「存在せよ1」1949年 油彩、カンヴァス メニル・コレクション、ヒューストン
その結果が、ポロック氏やラインハルト氏、そしてこのB.ニューマン氏のような「奥行の無い」、「ものの形を描かない」アメリカの「抽象絵画」となって現れました。
それ以降「現代美術」あるいは「現代アート」の世界では、今まで通りの絵画は描けなくなって行きました。
しかし、それは実のところ「東西の冷戦」の中で行われた「文化戦争」だったのです。
もう少し言うと《美術運動の形をとった一つの軍事作戦》と言っても良いと思います。
アド・ラインハルト氏の絵画の「新しいアカデミーの12ルール」には、「光があってはならない」「色彩があってはならない」「フォルムがあってはならない」というものがあります。
それをすべて見て行くと
「だったら、絵画やらなければいいじゃないか」
と思うほど、今までの絵画の構成要素を否定しています。
しかしそれは「冷戦」における文化戦争の中の「一大軍事諜報作戦」として進められていたということがあとで分かってきました。
「絵画は終わった」とアメリカが言えば言うほど、豊かな絵画文化を持つフランスやヨーロッパ文化は劣勢になって行き、それがソ連邦を追い詰め、最後はアメリカが冷戦に勝って行く一助になった訳です。
第二次大戦後のフランスやヨーロッパの文化人は、ソ連邦寄りの共産主義の人が多く、ピカソも1944年に共産党員になってアメリカの商戦戦争を批判しています。
それに対してアメリカは物量にモノを言わせて「絵画は終わった」という弾丸を、ヨーロッパ、そして日本に向けて徹底的に撃ちまくりました。
特に同じプロテスタント国のイギリスとドイツはアメリカと強い連携を取って自国の美術文化を徹底した「反フランス色」にして行ったと思われます。
ピカソ 朝鮮の虐殺
ただ、それはベトナムで米軍が撒いた「枯葉剤」みたいなものでもありました。
「あとはぺんぺん草も生えない不毛な大地となってしまった」
1989年まで続いた「東西冷戦」の背後では、美術界でこのような熾烈な戦いがあったことなど知る由もない10代の画学生には、「いったい美術の世界では何が起きているのだ」ということがなかなか分からないでいました。
大学4年生になり、芸大のK君の発案で、和光大のN君と私の3人でそれを実際にこの目で見るための「アメリカ現代美術視察旅行」に行きました。
ポロックの絵の前のN君とK君 1981年 ニューヨーク
そこではどの美術館に行っても圧倒的なスケールでのアメリカ現代絵画が「これでもか、これでもか」といった威容で見るものを圧倒していました。
「すごいな」
とは思いました。
ただもちろん大味で、作品そのものの感動が少なく、私は暇を見つけては水族館に行き、これも巨大なロブスターを見て「すごいな」とびっくりしていました。
それぞれの水族館にはそれぞれに「世界最大のロブスター」がいたのには笑ってしまいました。
またホテルの管理人さんが、私たちに気付かいほど夢中になってテレビの白黒のゴジラ映画を見ていたことにもびっくりしました。>
「小川君のこの作品は、うちでは展示できない。申し訳ない。」
と言われました。
宗教の影響を受けて私の絵は明るくなって来ていてました。
それは「宗教絵画」でしたが、私はそれも「現代美術の作品」として成立するのではと思ってTさんに見ていただきました。
作品自体はふつうの人が見たらそれほどおかしな作品では無いと思います。
はす 小川 淳 1995
しかしTさんからは
「これでは展覧会は出来ないわ」
と言われました。
それは《絵の上手い下手》とかではなく、「現代美術」で絵画を発表する時の不文律の「コード」(規則・規定)に反しているのです。
ただ不文律なので、どこかに書いてある訳ではありません。書いてあるとしたら、美術史の1912年のところにある「絵画は終わった」というデュシャン氏の文言です。
【絵画は終わった】 1912年、友人のピカビアとパリの航空ショーに行ったデュシャンは、そこで美しく造形された飛行機のプロペラを見て『絵画は終わった。いったい誰がこのプロペラ以上に美しいものを作れるっていうんだ?』と言った。
と言われています。
本当かどうかは分かりません。
ただ実際は、《20世紀アメリカ現代絵画が、デュシャンのその言葉を使って「ヨーロッパ絵画」を否定した》ということです。
アメリカの担当者が、その言葉を必要としていたのです。
バーネット・ニューマン「存在せよ1」1949年 油彩、カンヴァス メニル・コレクション、ヒューストン
その結果が、ポロック氏やラインハルト氏、そしてこのB.ニューマン氏のような「奥行の無い」、「ものの形を描かない」アメリカの「抽象絵画」となって現れました。
それ以降「現代美術」あるいは「現代アート」の世界では、今まで通りの絵画は描けなくなって行きました。
しかし、それは実のところ「東西の冷戦」の中で行われた「文化戦争」だったのです。
もう少し言うと《美術運動の形をとった一つの軍事作戦》と言っても良いと思います。
アド・ラインハルト氏の絵画の「新しいアカデミーの12ルール」には、「光があってはならない」「色彩があってはならない」「フォルムがあってはならない」というものがあります。
それをすべて見て行くと
「だったら、絵画やらなければいいじゃないか」
と思うほど、今までの絵画の構成要素を否定しています。
しかしそれは「冷戦」における文化戦争の中の「一大軍事諜報作戦」として進められていたということがあとで分かってきました。
「絵画は終わった」とアメリカが言えば言うほど、豊かな絵画文化を持つフランスやヨーロッパ文化は劣勢になって行き、それがソ連邦を追い詰め、最後はアメリカが冷戦に勝って行く一助になった訳です。
第二次大戦後のフランスやヨーロッパの文化人は、ソ連邦寄りの共産主義の人が多く、ピカソも1944年に共産党員になってアメリカの商戦戦争を批判しています。
それに対してアメリカは物量にモノを言わせて「絵画は終わった」という弾丸を、ヨーロッパ、そして日本に向けて徹底的に撃ちまくりました。
特に同じプロテスタント国のイギリスとドイツはアメリカと強い連携を取って自国の美術文化を徹底した「反フランス色」にして行ったと思われます。
ピカソ 朝鮮の虐殺
ただ、それはベトナムで米軍が撒いた「枯葉剤」みたいなものでもありました。
「あとはぺんぺん草も生えない不毛な大地となってしまった」
1989年まで続いた「東西冷戦」の背後では、美術界でこのような熾烈な戦いがあったことなど知る由もない10代の画学生には、「いったい美術の世界では何が起きているのだ」ということがなかなか分からないでいました。
大学4年生になり、芸大のK君の発案で、和光大のN君と私の3人でそれを実際にこの目で見るための「アメリカ現代美術視察旅行」に行きました。
ポロックの絵の前のN君とK君 1981年 ニューヨーク
そこではどの美術館に行っても圧倒的なスケールでのアメリカ現代絵画が「これでもか、これでもか」といった威容で見るものを圧倒していました。
「すごいな」
とは思いました。
ただもちろん大味で、作品そのものの感動が少なく、私は暇を見つけては水族館に行き、これも巨大なロブスターを見て「すごいな」とびっくりしていました。
それぞれの水族館にはそれぞれに「世界最大のロブスター」がいたのには笑ってしまいました。
またホテルの管理人さんが、私たちに気付かいほど夢中になってテレビの白黒のゴジラ映画を見ていたことにもびっくりしました。>
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