「絵画の終わり」の終わり [アート 現代美術]
その10年ほど前、Tさんがまだユマニテに在籍されていたころ、奈良君と私との三人の席で
「どんな作品であっても、5年間は展覧会を続ける」
と言って下さったことがあり、名古屋の栄で三人で「頑張ろう!」と乾杯をしました。
Tさんは義理堅い方で、そんな簡単に約束を破る人ではないのですが、そのTさんが「小川君、これでは展覧会出来ない」と言われた理由の背景には、このような事情がありました。
絶望の「現代美術」と希望の「宗教美術」は一番相性が悪いのかも知れません。
青の彼方 小川 淳
それをあえて「現代美術」として出そうとすれば、《さかさまに》展示したらOKになる可能性はあります。
床に置いて《踏んで》ください、としたらたぶんOKです。
天井に貼ったら・・・微妙です。
「天竺塔」を絵画ではなく写真でやった理由は、そこにあります。それは「現代美術」に合わせた作品でした。
絵画をさかさまに展示するバゼリッツ
ただそれをやって何が面白いのか?という素朴な疑問はあります。目的は「現代美術」で成功することなのか。
「現代美術」の世界で認められているためには、その「踏み絵」を踏まないといけません。
ふつうの絵ではなく《ちゃんと描かないことを示す》、または《不安を表す、気持ち悪い》どこか《影があったり、斜に構えていたり、あえて唯物的であったり…道徳倫理やヒューマニズムを否定している絵画作品》などなどです。
そのようなちょっと変わった暗い絵画が「現代美術」でたくさん出てくる理由です。
先ほどのドナルド・ジャッド氏も「絵画の終焉」を唱えています。
フランク・ステラというアメリカの画家が、デュシャン氏に疑問を持ち、ピカソを評価した作品を作り始めた時、ドナルド・ジャッド氏は「裏切者ペテン師!」と烈火のごとく怒りました。
たぶんジャッド氏を怒らせているフランク・ステラの作品
奈良君の作品もちょっと「不気味」な絵だと私は感じています。この「不気味さ」や、相田誠氏のような「奇異性」は、残念ながら「現代美術」の絵画として認められるために必要な要素だと思います。
それは時代の「不安感」を表しています。その「不安感」に共感する人々が少なからずいると思います。
そこでは「健全な絵」は能天気な「絵空事」のように見えるかも知れません。
アフロディーテ 小川 淳
《心ある人ならこの時代に不安を感じていなければ嘘だ》
《まともな人間なら、今の時代に希望を感じて美しい絵を描いてるなんて現実逃避だ。》
という気持ちです。たしかにその気持ちは分かります。
私たちがマスコミなどを通して目にしたり耳にしたりするものは、おかしな政治の話やコロナウィルス、原発や気候変動などの異常現象など、この先の未来はどうなってしまうのだろうというようなものにあふれています。その中で、希望や夢にあふれた美しい絵を描くということは、「現実逃避」のように見えるかもしれません。
プラトンの凧揚げ 小川 淳
しかし地球を悪くしているものは、政治家でもウィルスでも原発でも地震や二酸化炭素や火山の噴火でもありません。
それは私たちの考え方です。目に見えるものしかない、神などはいないと考える「唯物論」「無神論」の考え方です。
文明は確かに危機を迎えていますが、その危機を作っているのは自分でもあるという認識のもとに立ち止まる必要があります。
そして、今の世の中の常識となっている考え方の中に間違いはないか、一度謙虚に反省する必要があると思うのです。現実がすべてだと思うと、たしかにそこには危機が見えて来ます。
そして人は「不安や絶望」の方を愛するようになって行きます。そうなると「希望や夢などの明るいもの」を、「そんなのは絵空事だ」と拒絶するようになって行きます。
奈良君が今のように有名になる前、私がドイツから帰って宗教に出会って希望の色の強い最初の個展を名古屋でやった時に私の作品を見て、
「これはダメだ」
と言ったそうです。また「現代美術」で活躍されている会田 誠さんは、私が学んでいる宗教の本を読んで
「この教えは自分にはまぶしすぎる」
と言って本を閉じたと聞きました。
永遠の法 太陽の法 大川隆法
私自身もその宗教に対してアンチだった時があり、その時は私の心はネガティヴで、文明の崩壊をおびえる気持ちがありましたので、その気持ちは分かります。
「だめだ、出来ない」の方にしがみ付いていたいというか。そちらの方が居心地が良いというか。
それは個人的なことというより、今の時代に対する感じ方です。「不安絶望愛好会」みたいなものでしょうか。
その「だめだ、出来ない」という感覚が、文明を危機の方に追いやり、危機がまた不安を引き寄せて行くという悪循環があります。それを押しとどめる力は、目には見えず、まだそこには現実化していない「夢や希望」の中にあります。
私はそれをもう少し学びたいと思い宗教に近付き、その結果「現代美術」から離れることになりました。
「どんな作品であっても、5年間は展覧会を続ける」
と言って下さったことがあり、名古屋の栄で三人で「頑張ろう!」と乾杯をしました。
Tさんは義理堅い方で、そんな簡単に約束を破る人ではないのですが、そのTさんが「小川君、これでは展覧会出来ない」と言われた理由の背景には、このような事情がありました。
絶望の「現代美術」と希望の「宗教美術」は一番相性が悪いのかも知れません。
青の彼方 小川 淳
それをあえて「現代美術」として出そうとすれば、《さかさまに》展示したらOKになる可能性はあります。
床に置いて《踏んで》ください、としたらたぶんOKです。
天井に貼ったら・・・微妙です。
「天竺塔」を絵画ではなく写真でやった理由は、そこにあります。それは「現代美術」に合わせた作品でした。
絵画をさかさまに展示するバゼリッツ
ただそれをやって何が面白いのか?という素朴な疑問はあります。目的は「現代美術」で成功することなのか。
「現代美術」の世界で認められているためには、その「踏み絵」を踏まないといけません。
ふつうの絵ではなく《ちゃんと描かないことを示す》、または《不安を表す、気持ち悪い》どこか《影があったり、斜に構えていたり、あえて唯物的であったり…道徳倫理やヒューマニズムを否定している絵画作品》などなどです。
そのようなちょっと変わった暗い絵画が「現代美術」でたくさん出てくる理由です。
先ほどのドナルド・ジャッド氏も「絵画の終焉」を唱えています。
フランク・ステラというアメリカの画家が、デュシャン氏に疑問を持ち、ピカソを評価した作品を作り始めた時、ドナルド・ジャッド氏は「裏切者ペテン師!」と烈火のごとく怒りました。
たぶんジャッド氏を怒らせているフランク・ステラの作品
奈良君の作品もちょっと「不気味」な絵だと私は感じています。この「不気味さ」や、相田誠氏のような「奇異性」は、残念ながら「現代美術」の絵画として認められるために必要な要素だと思います。
それは時代の「不安感」を表しています。その「不安感」に共感する人々が少なからずいると思います。
そこでは「健全な絵」は能天気な「絵空事」のように見えるかも知れません。
アフロディーテ 小川 淳
《心ある人ならこの時代に不安を感じていなければ嘘だ》
《まともな人間なら、今の時代に希望を感じて美しい絵を描いてるなんて現実逃避だ。》
という気持ちです。たしかにその気持ちは分かります。
私たちがマスコミなどを通して目にしたり耳にしたりするものは、おかしな政治の話やコロナウィルス、原発や気候変動などの異常現象など、この先の未来はどうなってしまうのだろうというようなものにあふれています。その中で、希望や夢にあふれた美しい絵を描くということは、「現実逃避」のように見えるかもしれません。
プラトンの凧揚げ 小川 淳
しかし地球を悪くしているものは、政治家でもウィルスでも原発でも地震や二酸化炭素や火山の噴火でもありません。
それは私たちの考え方です。目に見えるものしかない、神などはいないと考える「唯物論」「無神論」の考え方です。
文明は確かに危機を迎えていますが、その危機を作っているのは自分でもあるという認識のもとに立ち止まる必要があります。
そして、今の世の中の常識となっている考え方の中に間違いはないか、一度謙虚に反省する必要があると思うのです。現実がすべてだと思うと、たしかにそこには危機が見えて来ます。
そして人は「不安や絶望」の方を愛するようになって行きます。そうなると「希望や夢などの明るいもの」を、「そんなのは絵空事だ」と拒絶するようになって行きます。
奈良君が今のように有名になる前、私がドイツから帰って宗教に出会って希望の色の強い最初の個展を名古屋でやった時に私の作品を見て、
「これはダメだ」
と言ったそうです。また「現代美術」で活躍されている会田 誠さんは、私が学んでいる宗教の本を読んで
「この教えは自分にはまぶしすぎる」
と言って本を閉じたと聞きました。
永遠の法 太陽の法 大川隆法
私自身もその宗教に対してアンチだった時があり、その時は私の心はネガティヴで、文明の崩壊をおびえる気持ちがありましたので、その気持ちは分かります。
「だめだ、出来ない」の方にしがみ付いていたいというか。そちらの方が居心地が良いというか。
それは個人的なことというより、今の時代に対する感じ方です。「不安絶望愛好会」みたいなものでしょうか。
その「だめだ、出来ない」という感覚が、文明を危機の方に追いやり、危機がまた不安を引き寄せて行くという悪循環があります。それを押しとどめる力は、目には見えず、まだそこには現実化していない「夢や希望」の中にあります。
私はそれをもう少し学びたいと思い宗教に近付き、その結果「現代美術」から離れることになりました。
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