名古屋の「現代美術」とドイツ [アート 現代美術]
1990年代の話ですが、名古屋に白土舎さんという「現代美術」系の画廊がありました。
私も白土舎を経営するTさんという方に色々お世話になりました。
Tさんは、奈良美智君という、今はすでに国際的な「現代美術」界で活躍され、今年の国際芸術祭「あいち2022」にも出している当時の若手の芸術家を応援していた方です。
Tさんはユマニテという画廊を経て独立され、「現代美術」業界に足場を持っていたプロの画商さんです。奈良美智君は、このユマニテや白土舎の支援を経て世に出て行きました。
奈良美智
私もその「白土舎」さんで1994年に展覧会をさせていただいたことがありました。
天竺塔より コロッセオ 小川 淳 1993
私のTさんの白土舎での展覧会は「天竺塔」というテーマで、「絵で描いた塔を写真にとってコラージュし、それをまた写真に撮る」という面倒な手法で制作をしたもので、ドイツで制作をして名古屋で発表したものです。今ならコンピューターですぐできる作品です。
天竺塔より 邪魔な塔 ケルン 小川 淳 /ドイツ 1991
その頃私は、まだ「現代美術」の世界に身を置いていましたが、この「天竺塔」を制作している時、なぜか
「これは、自分にとっては『現代美術』の卒業制作になるだろう」
という予感がしました。
ドイツでの一こま
その頃、私や奈良君、名古屋の河合塾の友人たちもドイツに住んでいました。
奈良君らはデュッセルドルフの芸術大学に行き、私は学校には行かず、制作もあまりせず、ドイツ人の女性と結婚して子育てなどをしていました。私は「イクメン」のはしりだと思います。
子供を持つことは大変なことだと思っていましたが、一方では子供はこんなにもかわいいものだということを私はドイツでの経験で知りました。
さて「現代美術」から離れ、収入も無い私にTさんが頼んでくれていた「ドイツ現代美術レポート」の提出のため、時々ケルンの街に出てはギャラリーを見て、写真とコメントを付けて毎月名古屋に送っていました。
ドイツでは、その頃ちょうど「ベルリンの壁」が崩壊しましたが、ある意味現地に近いところでドイツ人と一緒に住んでいてもあまりその衝撃は伝わらず、「壁が壊れたらしい」という話で終わったのが逆に印象的でした。
後で本当にショックを受けたのが、日本の新聞で「ベルリンの壁崩壊」の記事を「見た」時です。
あらためて私たちはマスコミの情報を通して「事実」を知覚するものだと思いました。
当時の西ドイツの「現代美術」の中心地 ケルン
私も白土舎を経営するTさんという方に色々お世話になりました。
Tさんは、奈良美智君という、今はすでに国際的な「現代美術」界で活躍され、今年の国際芸術祭「あいち2022」にも出している当時の若手の芸術家を応援していた方です。
Tさんはユマニテという画廊を経て独立され、「現代美術」業界に足場を持っていたプロの画商さんです。奈良美智君は、このユマニテや白土舎の支援を経て世に出て行きました。
奈良美智
私もその「白土舎」さんで1994年に展覧会をさせていただいたことがありました。
天竺塔より コロッセオ 小川 淳 1993
私のTさんの白土舎での展覧会は「天竺塔」というテーマで、「絵で描いた塔を写真にとってコラージュし、それをまた写真に撮る」という面倒な手法で制作をしたもので、ドイツで制作をして名古屋で発表したものです。今ならコンピューターですぐできる作品です。
天竺塔より 邪魔な塔 ケルン 小川 淳 /ドイツ 1991
その頃私は、まだ「現代美術」の世界に身を置いていましたが、この「天竺塔」を制作している時、なぜか
「これは、自分にとっては『現代美術』の卒業制作になるだろう」
という予感がしました。
ドイツでの一こま
その頃、私や奈良君、名古屋の河合塾の友人たちもドイツに住んでいました。
奈良君らはデュッセルドルフの芸術大学に行き、私は学校には行かず、制作もあまりせず、ドイツ人の女性と結婚して子育てなどをしていました。私は「イクメン」のはしりだと思います。
子供を持つことは大変なことだと思っていましたが、一方では子供はこんなにもかわいいものだということを私はドイツでの経験で知りました。
さて「現代美術」から離れ、収入も無い私にTさんが頼んでくれていた「ドイツ現代美術レポート」の提出のため、時々ケルンの街に出てはギャラリーを見て、写真とコメントを付けて毎月名古屋に送っていました。
ドイツでは、その頃ちょうど「ベルリンの壁」が崩壊しましたが、ある意味現地に近いところでドイツ人と一緒に住んでいてもあまりその衝撃は伝わらず、「壁が壊れたらしい」という話で終わったのが逆に印象的でした。
後で本当にショックを受けたのが、日本の新聞で「ベルリンの壁崩壊」の記事を「見た」時です。
あらためて私たちはマスコミの情報を通して「事実」を知覚するものだと思いました。
当時の西ドイツの「現代美術」の中心地 ケルン
「現代美術」と愛知、名古屋 [アート 現代美術]
さて、話は少し戻ります。
芸大の入学当初、デュシャン氏については、名前だけは聞いたことがありました。
それは荒川修作氏という愛知県出身の「現代美術」の画家が、アメリカに行って「デュシャン氏の薫陶を受けて活躍した」ということを名古屋にいた時に河合塾の原先生などから聞いていたからです。
マルセル・デュシャンと荒川修作、ドワン画廊 1966
荒川修作 マドリン・ギンズ 意味のメカニズム 1971年
受験生の私は、芸大の受験準備のため、森岡先生から通うように言われた名古屋の藤島 奬(すすむ)先生という日展の先生のところにデッサンを習いに毎週日曜日に行っていました。
ハイデルベルグ 藤島奨 油彩
藤島先生のところでは、絵が上手いと思っていた私は天狗の鼻が折られ、「石膏デッサン」というギリシャ彫刻のデッサンで苦労していました。私のデッサンが”相手の像に似ない”という恐ろしい事態に直面していました。
このデッサンは、2年掛かって高校3年生でようやくこのレベルになったものです。
ひどいデッサンも取ってあるので、またいつかお見せできる機会もあるかも知れません。
アリアス像石膏デッサン 小川 淳 1977
絵が上手いと思っていた自分は、「ギリシャ彫刻の顔が似ない」というスランプにはまって、「このまま行ったら本当に受験は絶望的だな」と頭を抱えていました。
しかし、東京芸大の試験では、すでにギリシャ彫刻は出ないことが分かってました。
それでも私は熱心に「石膏デッサン」に取り組んでいました。
当時目にした美術教育の出版物の多くに
「石膏デッサンは時代遅れ。自由な創造性にとってあれは害になる。」
というものが多くありました。それに違和感を覚えていた私は、森岡宣氏から藤島先生、そして河合塾の原先生のもとで「石膏デッサン」を学んだことは本当に良かったと思っています。
私にとってはデッサンは、創造性を支える足腰のようなものになっており、創造性やアイデアだけでは作品は成立せず、意外と早く枯れて行くように思います。
ただ入学試験でギリシャ彫刻が出ていた愛知芸大は、私はデッサンの一次試験で落ちました。
これは絵を描く場所が抽選で最後列になり、私はいつも最前列のかぶりつきで描いていたので、要領が掴めず、デッサンが空回りしてしまったからです。
モリエール像石膏デッサン 小川 淳
さて、その荒川修作氏も、名古屋の旭丘高校美術科に在籍していた時、その藤島先生に教わっていました。荒川氏は私より24歳上です。
藤島先生は、荒川氏がある時、壁に貼ってある参考作品の石膏デッサンを剥がしてきて、自分のデッサンと見比べていて、足を机の上に投げ出して寝そべって見較べてるその姿がとても不遜に見えたと言われてました。
私は思わず膝を揃え、背筋を伸ばしましたが。
藤島先生は、画家としての荒川氏のことは、あまり評価出来ないと言われてました。藤島先生は日展という保守的な団体の幹部で、荒川氏は前衛芸術ですから仕方ないかも知れません。
ただ妙に藤島先生とポロック氏の絵がダブって見える感じもします。お二人の歳は近いです。(ポロック 1912年生まれ、 藤島 奨 1915年生まれ )
ポロック氏の絵を元にした携帯カバー
毎週日曜日の藤島先生のデッサンの授業のあと、栄や伏見の画廊を見て回って「ギャラリーたかぎ」などでは荒川氏の作品も時々目にしました。それは絵というよりは記号的なデザインのようでした。
今、その近くのスタバで良くお茶を飲んでます。
荒川氏は、岐阜の「養老天命反転地」で知られています。
荒川さんや工藤哲巳さん、中西夏之さんや赤瀬川源平さんなどが、戦後の日本の「現代美術」界では活躍されていたと思います。0円札の赤瀬川さんも旭丘高校の美術科出身です
デートペインティングで有名な河原 温さんも愛知県の人です。
1978年6月10日 河原 温 1978
今のアートシーンで活躍している奈良美智君も、武蔵美から愛知芸大に来て、そこからドイツに行ってます。彼はドイツのデュッセルドルフの芸術大学では、ニューイメージペインティングのA.R.ペンク氏の教室だったと思います。
奈良美智
それを思うと、愛知県は「現代美術」と深い関係があるようにも思います。
芸大の入学当初、デュシャン氏については、名前だけは聞いたことがありました。
それは荒川修作氏という愛知県出身の「現代美術」の画家が、アメリカに行って「デュシャン氏の薫陶を受けて活躍した」ということを名古屋にいた時に河合塾の原先生などから聞いていたからです。
マルセル・デュシャンと荒川修作、ドワン画廊 1966
荒川修作 マドリン・ギンズ 意味のメカニズム 1971年
受験生の私は、芸大の受験準備のため、森岡先生から通うように言われた名古屋の藤島 奬(すすむ)先生という日展の先生のところにデッサンを習いに毎週日曜日に行っていました。
ハイデルベルグ 藤島奨 油彩
藤島先生のところでは、絵が上手いと思っていた私は天狗の鼻が折られ、「石膏デッサン」というギリシャ彫刻のデッサンで苦労していました。私のデッサンが”相手の像に似ない”という恐ろしい事態に直面していました。
このデッサンは、2年掛かって高校3年生でようやくこのレベルになったものです。
ひどいデッサンも取ってあるので、またいつかお見せできる機会もあるかも知れません。
アリアス像石膏デッサン 小川 淳 1977
絵が上手いと思っていた自分は、「ギリシャ彫刻の顔が似ない」というスランプにはまって、「このまま行ったら本当に受験は絶望的だな」と頭を抱えていました。
しかし、東京芸大の試験では、すでにギリシャ彫刻は出ないことが分かってました。
それでも私は熱心に「石膏デッサン」に取り組んでいました。
当時目にした美術教育の出版物の多くに
「石膏デッサンは時代遅れ。自由な創造性にとってあれは害になる。」
というものが多くありました。それに違和感を覚えていた私は、森岡宣氏から藤島先生、そして河合塾の原先生のもとで「石膏デッサン」を学んだことは本当に良かったと思っています。
私にとってはデッサンは、創造性を支える足腰のようなものになっており、創造性やアイデアだけでは作品は成立せず、意外と早く枯れて行くように思います。
ただ入学試験でギリシャ彫刻が出ていた愛知芸大は、私はデッサンの一次試験で落ちました。
これは絵を描く場所が抽選で最後列になり、私はいつも最前列のかぶりつきで描いていたので、要領が掴めず、デッサンが空回りしてしまったからです。
モリエール像石膏デッサン 小川 淳
さて、その荒川修作氏も、名古屋の旭丘高校美術科に在籍していた時、その藤島先生に教わっていました。荒川氏は私より24歳上です。
藤島先生は、荒川氏がある時、壁に貼ってある参考作品の石膏デッサンを剥がしてきて、自分のデッサンと見比べていて、足を机の上に投げ出して寝そべって見較べてるその姿がとても不遜に見えたと言われてました。
私は思わず膝を揃え、背筋を伸ばしましたが。
藤島先生は、画家としての荒川氏のことは、あまり評価出来ないと言われてました。藤島先生は日展という保守的な団体の幹部で、荒川氏は前衛芸術ですから仕方ないかも知れません。
ただ妙に藤島先生とポロック氏の絵がダブって見える感じもします。お二人の歳は近いです。(ポロック 1912年生まれ、 藤島 奨 1915年生まれ )
ポロック氏の絵を元にした携帯カバー
毎週日曜日の藤島先生のデッサンの授業のあと、栄や伏見の画廊を見て回って「ギャラリーたかぎ」などでは荒川氏の作品も時々目にしました。それは絵というよりは記号的なデザインのようでした。
今、その近くのスタバで良くお茶を飲んでます。
荒川氏は、岐阜の「養老天命反転地」で知られています。
荒川さんや工藤哲巳さん、中西夏之さんや赤瀬川源平さんなどが、戦後の日本の「現代美術」界では活躍されていたと思います。0円札の赤瀬川さんも旭丘高校の美術科出身です
デートペインティングで有名な河原 温さんも愛知県の人です。
1978年6月10日 河原 温 1978
今のアートシーンで活躍している奈良美智君も、武蔵美から愛知芸大に来て、そこからドイツに行ってます。彼はドイツのデュッセルドルフの芸術大学では、ニューイメージペインティングのA.R.ペンク氏の教室だったと思います。
奈良美智
それを思うと、愛知県は「現代美術」と深い関係があるようにも思います。
野田先生と中林先生 [アート 現代美術]
その状況の中で見事に「現代美術」の流れに乗ってトップまで行っていた先生もいました。
野田哲也先生という版画家の方です。
日記 1978年12月6日 野田哲也
私は3年生からこの先生と、銅版画の中林忠良先生に教わることになります。
中林忠良「転位 '07-地-Ⅱ」 2007年
森岡先生が版画家だったこともあり、野田先生は大学に入る前から知っていました。
両先生は芸大の同級生で、絵はどちらも「奥行きが少なく平面的で、白黒で手作業の部分も少なく写真をメインにしている」ことが特徴です。
私も特に意識したわけではありませんが、作品が平面的になっています。
詩画集いつみきとてか より 小川 淳 1980 友人のW君と一緒に作った詩画集
これは、アメリカ現代絵画が要求している「ヨーロッパ的ではない絵」という条件を満たしています。
絵画のなかの「奥行や光の明暗、美しい色彩、上手な手作業の痕跡」などを出来るだけ少なくして、ヨーロッパ絵画の痕跡を消すことが暗黙の裡に求められていました。それが残っていると現代絵画としては評価の対象にならないのです。
野田先生は、そこのところをかなり明確に意識されていて、ある意味ジャストミートしていると思います。とても賢い先生だったと思います。
中林先生は、そこまで絵画性は消しきれなかったと思います。中林先生はパリが似合う雰囲気の先生でした。
他の先生で、のちに退官記念展覧会の時に「表に出す作品は、現代美術風にしないといけなかったのが苦しかった」とおっしゃって、陰では別の絵を描いていたという先生もみえました。
大学院の先輩たちの中には、それをさらに先鋭化した保科豊巳さん、川俣 正さん、田中睦治さんらがみえました。
その方々は、まったく絵は捨てていました。
川俣正 《デストロイド・チャーチ》ドクメンタ8、カッセル 1987 この作品は、友人のチャーリー氏と一緒にカッセルに見に行った。
絵を捨てることで、世界のビエンナーレやトリエンナーレカッセルのドクメンタで活躍できるという姿を実際に私たちに示していました。
ただそれで一体何が言いたいのかが私にはさっぱり分からなかったのです。
野田哲也先生という版画家の方です。
日記 1978年12月6日 野田哲也
私は3年生からこの先生と、銅版画の中林忠良先生に教わることになります。
中林忠良「転位 '07-地-Ⅱ」 2007年
森岡先生が版画家だったこともあり、野田先生は大学に入る前から知っていました。
両先生は芸大の同級生で、絵はどちらも「奥行きが少なく平面的で、白黒で手作業の部分も少なく写真をメインにしている」ことが特徴です。
私も特に意識したわけではありませんが、作品が平面的になっています。
詩画集いつみきとてか より 小川 淳 1980 友人のW君と一緒に作った詩画集
これは、アメリカ現代絵画が要求している「ヨーロッパ的ではない絵」という条件を満たしています。
絵画のなかの「奥行や光の明暗、美しい色彩、上手な手作業の痕跡」などを出来るだけ少なくして、ヨーロッパ絵画の痕跡を消すことが暗黙の裡に求められていました。それが残っていると現代絵画としては評価の対象にならないのです。
野田先生は、そこのところをかなり明確に意識されていて、ある意味ジャストミートしていると思います。とても賢い先生だったと思います。
中林先生は、そこまで絵画性は消しきれなかったと思います。中林先生はパリが似合う雰囲気の先生でした。
他の先生で、のちに退官記念展覧会の時に「表に出す作品は、現代美術風にしないといけなかったのが苦しかった」とおっしゃって、陰では別の絵を描いていたという先生もみえました。
大学院の先輩たちの中には、それをさらに先鋭化した保科豊巳さん、川俣 正さん、田中睦治さんらがみえました。
その方々は、まったく絵は捨てていました。
川俣正 《デストロイド・チャーチ》ドクメンタ8、カッセル 1987 この作品は、友人のチャーリー氏と一緒にカッセルに見に行った。
絵を捨てることで、世界のビエンナーレやトリエンナーレカッセルのドクメンタで活躍できるという姿を実際に私たちに示していました。
ただそれで一体何が言いたいのかが私にはさっぱり分からなかったのです。
当時の東京芸大油画科 [アート 現代美術]
デュシャン氏を「思想の核」とし、ポロック氏らの作品を「実弾」としたアメリカからの「美術文化」の総攻撃は、ヨーロッパや日本を情け容赦なく攻撃していました。
大府中学校の森岡先生との出会いによって美術の道に進んだ私は、無事に難関の東京芸大に入ったものの、そこですかさず「現代美術」の洗礼を受け、絵を描くことができなくなって行きました。
しかしそれは、学生の私だけに起きたことではなく、芸大の先生たちの身にもその洗礼は及んでいました。
当時K君から、アメリカ抽象表現主義の画家の作品は色々見せてもらっていました。
マーク・ロスコ WHITE CENTER (YELLOW, PINK AND LAVENDER ON ROSE), 1950 この作品は、2007年の当時の最高額の87億円で落札された。ロスコはその37年前に自殺。前の持ち主は100万円以下で購入したという。
ウィリアム・デ・クーニングの画集 当時の新宿の予備校から芸大に入った同級生は、アメリカ抽象表現主義の画集をよく持っていた。
ラウシェンバーグ そのクーニングのデッサンを消しゴムで消したドローイング
芸大の油画科では、当然絵の授業はあり評価も出ます。
しかしそこで先生方が言われる言葉や評価が私にはちんぷんかんぷんで何を言われているのか、何が評価の基準になっているのかがさっぱり分かりませんでした。
一年生の前期でやる課題の石膏デッサンでは、割と自分では良くできたと思って、まわりの評価も高く、K君と親しくなるきっかけにもなった騎馬像のデッサンはとても悪い評価でした。
コレオーニ将軍騎馬像デッサン 小川 淳 1977
その理由が先生の話を聞いていても良く分からず、まさかそれがアメリカ現代美術と関係があるとはまだ思わなかったのです。
先生方が言われることは脈絡が無く、何が言いたいのか分からず、私は不思議な異世界に迷い込んでしまったような気になりました。
ただ抽象画を描いている杉全先生の言うことは、日本語として理解が出来ました。
キッコウ 杉全 直 1961
杉全先生の授業で制作した抽象ドローイング03 小川 淳 1978
トリフォーの映画「華氏451度」の世界はフィクションではありませんでした。
美術大学に入ったと思っていた私がいたところは普通には絵が描けない「現代美術」大学でした。
2年生になって、大学に行かなくなった私は、芸大の寮のアトリエで制作することが多くなりました。
寮のアトリエの壁に描いた壁画と私
もともと中学生から暗かった私の絵は、芸大に入ってますます暗くなって行きました。
イエス・キリスト 小川 淳 1979
磔 小川 淳 1978
自画像 小川 淳 1978
大府中学校の森岡先生との出会いによって美術の道に進んだ私は、無事に難関の東京芸大に入ったものの、そこですかさず「現代美術」の洗礼を受け、絵を描くことができなくなって行きました。
しかしそれは、学生の私だけに起きたことではなく、芸大の先生たちの身にもその洗礼は及んでいました。
当時K君から、アメリカ抽象表現主義の画家の作品は色々見せてもらっていました。
マーク・ロスコ WHITE CENTER (YELLOW, PINK AND LAVENDER ON ROSE), 1950 この作品は、2007年の当時の最高額の87億円で落札された。ロスコはその37年前に自殺。前の持ち主は100万円以下で購入したという。
ウィリアム・デ・クーニングの画集 当時の新宿の予備校から芸大に入った同級生は、アメリカ抽象表現主義の画集をよく持っていた。
ラウシェンバーグ そのクーニングのデッサンを消しゴムで消したドローイング
芸大の油画科では、当然絵の授業はあり評価も出ます。
しかしそこで先生方が言われる言葉や評価が私にはちんぷんかんぷんで何を言われているのか、何が評価の基準になっているのかがさっぱり分かりませんでした。
一年生の前期でやる課題の石膏デッサンでは、割と自分では良くできたと思って、まわりの評価も高く、K君と親しくなるきっかけにもなった騎馬像のデッサンはとても悪い評価でした。
コレオーニ将軍騎馬像デッサン 小川 淳 1977
その理由が先生の話を聞いていても良く分からず、まさかそれがアメリカ現代美術と関係があるとはまだ思わなかったのです。
先生方が言われることは脈絡が無く、何が言いたいのか分からず、私は不思議な異世界に迷い込んでしまったような気になりました。
ただ抽象画を描いている杉全先生の言うことは、日本語として理解が出来ました。
キッコウ 杉全 直 1961
杉全先生の授業で制作した抽象ドローイング03 小川 淳 1978
トリフォーの映画「華氏451度」の世界はフィクションではありませんでした。
美術大学に入ったと思っていた私がいたところは普通には絵が描けない「現代美術」大学でした。
2年生になって、大学に行かなくなった私は、芸大の寮のアトリエで制作することが多くなりました。
寮のアトリエの壁に描いた壁画と私
もともと中学生から暗かった私の絵は、芸大に入ってますます暗くなって行きました。
イエス・キリスト 小川 淳 1979
磔 小川 淳 1978
自画像 小川 淳 1978
あいちトリエンナーレ2019 4 [アート 現代美術]
「あいちトリエンナーレ2019」は、約100年前の1917年のニューヨークのアンデパンダン展でのデュシャン氏の事件を彷彿とさせる「炎上」事件となりました。
マルセル・デュシャン氏は、その事件によって「20世紀最大の芸術家」という称号を得ました。
その時彼は「便器」を出せば問題になるということが分かった上で、「盲目の男(Blind man)」という名前の前衛的な美術雑誌の発刊をあらかじめ準備しました。
彼の「便器」の「便器」は予想通り理事会で「展示できません 」ということになり、デュシャン氏を含む数名の理事がその決定を受け辞任、デュシャン氏は用意していた「盲目の男」にその顛末に写真を添えて第一号を発行しました。
人々が見たのは、「盲目の男」に掲載されたスティーグリッツ氏が撮影した「噴水」と題する「便器」の作品の写真だけでした。つまりデュシャン氏の「噴水」を見た観客は誰もいなかったのです。
デュシャン氏が発刊した前衛美術雑誌 盲目の男 1917年
「盲目の男」は、その第一号で役目を終え廃刊になります。
またこの時のアンデパンダン展では、もう一つの事件がありました。
それはデュシャン氏の「チューリップ・ヒステリー・コーディネーティング」という作品をめぐる事件です。
1913年に開催されたアーモリーショーというヨーロッパの前衛絵画を紹介する大規模な展覧会に出品されたデュシャン氏の「階段を下りる裸婦 No.2」という作品は、マスコミから「レンガ工場の爆発」と非難され、それを見たセオドア・ルーズベルト大統領からも
「うちの絨毯の方がこの絵よりも間違いなく優れている。」
とひどいことを言われながらも、一部の前衛美術ファンから熱狂的に支持されていました。
階段を下りる裸婦 No.2
M.デュシャン 1912
そのデュシャン氏の新作がこのアンデパンダン展で出されるという噂があったのですが、「チューリップ・ヒステリー・コーディネーティング」という絵は、結局展覧会場にはありませんでした。
おそらく初めからその絵はなく、ニューヨークの前衛美術に見せるヒステリックな熱狂と、オランダのチューリップの球根を巡って起きたやはりヒステリックな熱狂とを掛け合わせたデュシャン氏のレトリックだったのでしょう。
この一連の流れを見て行くと、デュシャン氏の天才的な着眼点の奇抜さや手際の良さと同時に「美術に対する複雑な感情」があるのに気付きます。
その複雑な感情の中には「美術の世界で成功したい」という気持ちと同時に「それが何になるのだ」という人生そのものや世の中に対する疑問のようなニヒリスティックな心も見えます。
それはデュシャン氏を認めなかった祖国フランスのパリに対する恨みのような気持ちもあるでしょう。
そしてデュシャン氏と同時代の画家であるピカソに対する嫉妬心のようなものもあったかも知れません。
またパリとは正反対に彼を暖かく受け入れてくれるニューヨークに対する感謝の気持ちもあったと思います。
さまざまな複合的なものがあったでしょうが、心から納得の行く答えや満足が得られないデュシャン氏の苦しみがそこにあったように思われます。
彼はニューヨークに住んでいても、おそらくはパリを愛していたと思います。と同時に反感もあったと思います。
そして彼の内面で、一番大きな葛藤と反発があったのはおそらくキリスト教のことだったのではないかと私は思っています。
デュシャンのそのような複雑な感情は、その後のアメリカ合衆国の超国家的な思惑と合体して「20世紀美術史」に壮大な1ページを残して行くことになります。
それはデュシャン氏の故郷のパリの芸術の否定という形で現れました。
特にヨーロッパの絵画を《全否定する》という未だかつて見たことが無いような「壮大な美術運動」となって全世界で展開して行きました。
マルセル・デュシャン氏は、その事件によって「20世紀最大の芸術家」という称号を得ました。
その時彼は「便器」を出せば問題になるということが分かった上で、「盲目の男(Blind man)」という名前の前衛的な美術雑誌の発刊をあらかじめ準備しました。
彼の「便器」の「便器」は予想通り理事会で「展示できません 」ということになり、デュシャン氏を含む数名の理事がその決定を受け辞任、デュシャン氏は用意していた「盲目の男」にその顛末に写真を添えて第一号を発行しました。
人々が見たのは、「盲目の男」に掲載されたスティーグリッツ氏が撮影した「噴水」と題する「便器」の作品の写真だけでした。つまりデュシャン氏の「噴水」を見た観客は誰もいなかったのです。
デュシャン氏が発刊した前衛美術雑誌 盲目の男 1917年
「盲目の男」は、その第一号で役目を終え廃刊になります。
またこの時のアンデパンダン展では、もう一つの事件がありました。
それはデュシャン氏の「チューリップ・ヒステリー・コーディネーティング」という作品をめぐる事件です。
1913年に開催されたアーモリーショーというヨーロッパの前衛絵画を紹介する大規模な展覧会に出品されたデュシャン氏の「階段を下りる裸婦 No.2」という作品は、マスコミから「レンガ工場の爆発」と非難され、それを見たセオドア・ルーズベルト大統領からも
「うちの絨毯の方がこの絵よりも間違いなく優れている。」
とひどいことを言われながらも、一部の前衛美術ファンから熱狂的に支持されていました。
階段を下りる裸婦 No.2
M.デュシャン 1912
そのデュシャン氏の新作がこのアンデパンダン展で出されるという噂があったのですが、「チューリップ・ヒステリー・コーディネーティング」という絵は、結局展覧会場にはありませんでした。
おそらく初めからその絵はなく、ニューヨークの前衛美術に見せるヒステリックな熱狂と、オランダのチューリップの球根を巡って起きたやはりヒステリックな熱狂とを掛け合わせたデュシャン氏のレトリックだったのでしょう。
この一連の流れを見て行くと、デュシャン氏の天才的な着眼点の奇抜さや手際の良さと同時に「美術に対する複雑な感情」があるのに気付きます。
その複雑な感情の中には「美術の世界で成功したい」という気持ちと同時に「それが何になるのだ」という人生そのものや世の中に対する疑問のようなニヒリスティックな心も見えます。
それはデュシャン氏を認めなかった祖国フランスのパリに対する恨みのような気持ちもあるでしょう。
そしてデュシャン氏と同時代の画家であるピカソに対する嫉妬心のようなものもあったかも知れません。
またパリとは正反対に彼を暖かく受け入れてくれるニューヨークに対する感謝の気持ちもあったと思います。
さまざまな複合的なものがあったでしょうが、心から納得の行く答えや満足が得られないデュシャン氏の苦しみがそこにあったように思われます。
彼はニューヨークに住んでいても、おそらくはパリを愛していたと思います。と同時に反感もあったと思います。
そして彼の内面で、一番大きな葛藤と反発があったのはおそらくキリスト教のことだったのではないかと私は思っています。
デュシャンのそのような複雑な感情は、その後のアメリカ合衆国の超国家的な思惑と合体して「20世紀美術史」に壮大な1ページを残して行くことになります。
それはデュシャン氏の故郷のパリの芸術の否定という形で現れました。
特にヨーロッパの絵画を《全否定する》という未だかつて見たことが無いような「壮大な美術運動」となって全世界で展開して行きました。
あいちトリエンナーレ2019 3 [アート 現代美術]
ところで「あいちトリエンナーレ2019」では、「表現の不自由展」を巡って展覧会が「炎上」したのですが、美術の歴史では、このような「炎上商法」の起源は1917年に遡ります。
それはロシア革命の年でした。
「現代美術」の教祖的存在でカリスマでもあるフランス人芸術家マルセル・デュシャンが、新興国アメリカのニューヨークのアンデパンダン展でやった「自作自演の展示騒動」がその走りでした。
彼は一定の会費を払えば誰でも自由に作品を2点出せるアンデパンダン展に男性用の「便器」を出品しました。
主催者側が「それはダメだ」と拒絶すると「待ってました」とばかり「表現の自由の侵害」として騒いだのです。
泉 マルセル・デュシャン 1917
まだ今よりモラルが厳格な保守的な時代でした。
《展覧会に便器を出せばどうなるか》が分かってやった「自作自演の炎上商法」です。しかし実は「便器」を拒絶したことになっている主催者側の一部もその演出に一役買っていたようです。
「あいちトリエンナーレ2019」の事件で真っ先に思ったのはデュシャン氏のこの騒動でした。
デュシャン氏は、この「自作自演の炎上事件」によって、のちの美術史の教科書に載り、「現代美術」の父としての尊敬を受けて行きます。
そういうことがあるので、この「あいちトリエンナーレ2019」の騒動は、皮肉にも「現代美術史」的には伝統的な手法に沿ってなされたものだと言えます。
この人がマルセル・デュシャン氏です。
先ほどの「自作自演の炎上商法」をやった人です。女装したりして、ちょっと???なところがある人です。
マルセル・デュシャン
「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展」で、《慰安婦像を思わせる「平和の少女」を出したことで「悪魔がしっぽを出した」》と私は書きましたが、それはこのデュシャン氏と関係があります。
彼を有名にしたもう一つのものは、
「絵画は終わった」
という言葉です。
1912年、友人のピカビアと一緒にパリ郊外の航空ショーに行ったデュシャン氏は、そこで美しく造形された飛行機のプロペラを見て
「絵画は終わった。いったい誰がこのプロペラ以上に美しいものを作れるっていうんだ?」
と言ったそうです。 これは、のちの「レディメイド」の概念に通じる言葉として美術史に記録されています。
この言葉は「絵画」というよりは「美術」の意味だったと思います。
しかしその奥にはもう一つ深いものがあったと私には思われます。
それはロシア革命の年でした。
「現代美術」の教祖的存在でカリスマでもあるフランス人芸術家マルセル・デュシャンが、新興国アメリカのニューヨークのアンデパンダン展でやった「自作自演の展示騒動」がその走りでした。
彼は一定の会費を払えば誰でも自由に作品を2点出せるアンデパンダン展に男性用の「便器」を出品しました。
主催者側が「それはダメだ」と拒絶すると「待ってました」とばかり「表現の自由の侵害」として騒いだのです。
泉 マルセル・デュシャン 1917
まだ今よりモラルが厳格な保守的な時代でした。
《展覧会に便器を出せばどうなるか》が分かってやった「自作自演の炎上商法」です。しかし実は「便器」を拒絶したことになっている主催者側の一部もその演出に一役買っていたようです。
「あいちトリエンナーレ2019」の事件で真っ先に思ったのはデュシャン氏のこの騒動でした。
デュシャン氏は、この「自作自演の炎上事件」によって、のちの美術史の教科書に載り、「現代美術」の父としての尊敬を受けて行きます。
そういうことがあるので、この「あいちトリエンナーレ2019」の騒動は、皮肉にも「現代美術史」的には伝統的な手法に沿ってなされたものだと言えます。
この人がマルセル・デュシャン氏です。
先ほどの「自作自演の炎上商法」をやった人です。女装したりして、ちょっと???なところがある人です。
マルセル・デュシャン
「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展」で、《慰安婦像を思わせる「平和の少女」を出したことで「悪魔がしっぽを出した」》と私は書きましたが、それはこのデュシャン氏と関係があります。
彼を有名にしたもう一つのものは、
「絵画は終わった」
という言葉です。
1912年、友人のピカビアと一緒にパリ郊外の航空ショーに行ったデュシャン氏は、そこで美しく造形された飛行機のプロペラを見て
「絵画は終わった。いったい誰がこのプロペラ以上に美しいものを作れるっていうんだ?」
と言ったそうです。 これは、のちの「レディメイド」の概念に通じる言葉として美術史に記録されています。
この言葉は「絵画」というよりは「美術」の意味だったと思います。
しかしその奥にはもう一つ深いものがあったと私には思われます。
あいちトリエンナーレ2019 2 [アート 現代美術]
それまでは、「現代美術」は、《美術界の中の問題》でした。それがテレビを通してお茶の間に飛び込んできたのです。
これはショックなことでしたが、自分にも何か突き付けられたような気がしました。
「なぜこうゆうことになったのか」
私は一人の美術関係者として、画家として自分なりの見解をまとめる必要があると感じました。
かと言って「あいちトリエンナーレ」のような「現代美術」系の展覧会と私はすでに接点はありません。誰かから意見を求められているわけでもなく、それを言うべき公的な立場もありません。
美術大学の講師もやめて久しいです。
しかしこの「現代美術」の問題は、長年私の心を悩ませていて、それに対する自分としての答えは出していましたが、それを今もう少し整理する必要も感じました。
それは「あいちトリエンナーレ」を非難することが目的ではありません。かと言って擁護することは難しく、また論文のようなきちっとした検証でもありません。
私が美大で教えていた時にも「才能がある多くの画学生が、『現代美術』を前にして次々と絵をやめて行く」姿を数多く目にして《何とも言えない無力感》を感じていたのは事実です。
「でもしょせん他人事。あれはまっとうな『美術』ではないし、好きな人たちが好きにやったらいいんじゃないか。」
と思って関わり合いを避けて来たのは事実です。しかしどうしても無関心ではいられないのです。
「どうしてそんなに気になるのだろう?自分はもうそこからは離れた筈なのに・・・。」
それは私は「美術」を愛しているからだということがだんだん分かってきました。愛している美術がおかしくなっていることをほっておけないのです。
あいちトリエンナーレ2019 1 [アート 現代美術]
少し前の話になりますが、今から三年前に「あいちトリエンナーレ2019」が開催されました。
私はその頃、すでに「現代美術」からは距離を取って「天井画・壁画 Panのそら」という工房を立ち上げてやっていました。
芸大の一件以来、何とか画家としての自分の答を「天井画」の世界に見出していましたが、「現代美術」のことは頭から離れず、何かこれはおかしいと思っていました。
さて、その「あいちトリエンナーレ2019」で展示された「平和の少女」像などを巡って展覧会は紛糾、いったんは中止された展示が再び再開されたり、名古屋市や国が補助金を見合わせると言って、愛知県知事と名古屋市長のケンカにまで発展する騒動となったことはまだ記憶に新しい事件でした。
いわゆる「炎上」した展覧会ですが、この「平和の少女像」による「表現の不自由展」は、「炎上商法」としては成功しました。入場者数は60万人を超え過去最高となりました。
これは地方の美術展としては異例の全国規模の注目を集めましたが、「現代美術」としてはやりすぎてしまって「悪魔が尻尾を出した」ように見えました。
芸術監督の津田大介さんがそこに「慰安婦問題」を持ち出したことで
「現代美術」って、何かおかしいんじゃないか?
と一般の人も感じることになりました。
それは逆説的ですがあいちトリエンナーレの一つの功績かも知れません。
この事件は、案外のちの世の美術史に残る事件のような気がします。
私はその頃、すでに「現代美術」からは距離を取って「天井画・壁画 Panのそら」という工房を立ち上げてやっていました。
芸大の一件以来、何とか画家としての自分の答を「天井画」の世界に見出していましたが、「現代美術」のことは頭から離れず、何かこれはおかしいと思っていました。
さて、その「あいちトリエンナーレ2019」で展示された「平和の少女」像などを巡って展覧会は紛糾、いったんは中止された展示が再び再開されたり、名古屋市や国が補助金を見合わせると言って、愛知県知事と名古屋市長のケンカにまで発展する騒動となったことはまだ記憶に新しい事件でした。
いわゆる「炎上」した展覧会ですが、この「平和の少女像」による「表現の不自由展」は、「炎上商法」としては成功しました。入場者数は60万人を超え過去最高となりました。
これは地方の美術展としては異例の全国規模の注目を集めましたが、「現代美術」としてはやりすぎてしまって「悪魔が尻尾を出した」ように見えました。
芸術監督の津田大介さんがそこに「慰安婦問題」を持ち出したことで
「現代美術」って、何かおかしいんじゃないか?
と一般の人も感じることになりました。
それは逆説的ですがあいちトリエンナーレの一つの功績かも知れません。
この事件は、案外のちの世の美術史に残る事件のような気がします。
絵の道に進む [アート 現代美術]
さて、私が観念して森岡先生に
「分かりました。絵の道に進みます」
と言うと、すかさず森岡先生からは
「東京芸大へ行け」
と言われました。
私はそれに対して
「えっ、そんなことまでは約束して無い・・・」
と、とても困惑しました。
その困惑した気持ちが収まらないうちに、さらに別のところから
「天井画をやれ」
という声がなぜか胸の中に響きました。
「何だろう、この声は・・・」
と思いましたが、その時はその意味は分かりませんでした。
その後私は森岡先生や河合塾の原先生、また東京の新宿美術学園の壁下先生らの指導のおかげで、無事東京芸大に入りました。
受験期の自画像 小川 淳 1977
しかし合格したその喜びもつかの間、K君を通して「現代美術」の話を聞き、特に絵画におけるその絶望的な状況にどのような答えを出すべきか分からず、次第次第に絵が描けなくなって行ったのです。
「分かりました。絵の道に進みます」
と言うと、すかさず森岡先生からは
「東京芸大へ行け」
と言われました。
私はそれに対して
「えっ、そんなことまでは約束して無い・・・」
と、とても困惑しました。
その困惑した気持ちが収まらないうちに、さらに別のところから
「天井画をやれ」
という声がなぜか胸の中に響きました。
「何だろう、この声は・・・」
と思いましたが、その時はその意味は分かりませんでした。
その後私は森岡先生や河合塾の原先生、また東京の新宿美術学園の壁下先生らの指導のおかげで、無事東京芸大に入りました。
受験期の自画像 小川 淳 1977
しかし合格したその喜びもつかの間、K君を通して「現代美術」の話を聞き、特に絵画におけるその絶望的な状況にどのような答えを出すべきか分からず、次第次第に絵が描けなくなって行ったのです。
森岡完介先生との出会い [アート 現代美術]
小学生の時に百科事典でポロック氏と出会ったこともいつしか忘れていました。
絵を描くことは好きな少年でしたが、画家になろうと思ったことはありませんでした。
それは先が見えない危険な道でした。ただ
「自分が一番得意なものは何だろうか? それは絵かも知れない。
自分の絵は日本ではどのくらいのレベルになるのだろうか?」
と小学生なりに思ったことはあります。
14歳になった中学二年生の時、地元大府中学の美術の先生として森岡完介先生という方が新しく赴任してこられました。その方は、新進の版画家として版画界で活躍中の方でした。
人は何処へ 森岡完介 1976年ころ
絵が好きな私は、剣道部の友人らと一緒に、森岡先生が担当している週一回の美術クラブに参加しました。
森岡先生は、そこで私に「絵の道」に進むことを勧めました。
獣医を志していた私は森岡先生のお誘いを断っていたのですが、蛇年の先生は案外粘り強く
「絵の道に進め」「いや進みません」「絶対に進め」「獣医になります」
というやり取りを1年以上続け、最後は母親まで説得されて根負けし、私はついに「画家の道」に進むことを決意しました。
それを決意したあとの森岡先生の美術の授業で描いた作品です。
土を求めて 1974 小川 淳
自分でもびっくりするような出来栄えで、森岡先生の私の進路についての確信を一層強めたと思います。
しかし絵の世界は、私にとってはまったく先が見えない世界でした。
絵を描くことは好きな少年でしたが、画家になろうと思ったことはありませんでした。
それは先が見えない危険な道でした。ただ
「自分が一番得意なものは何だろうか? それは絵かも知れない。
自分の絵は日本ではどのくらいのレベルになるのだろうか?」
と小学生なりに思ったことはあります。
14歳になった中学二年生の時、地元大府中学の美術の先生として森岡完介先生という方が新しく赴任してこられました。その方は、新進の版画家として版画界で活躍中の方でした。
人は何処へ 森岡完介 1976年ころ
絵が好きな私は、剣道部の友人らと一緒に、森岡先生が担当している週一回の美術クラブに参加しました。
森岡先生は、そこで私に「絵の道」に進むことを勧めました。
獣医を志していた私は森岡先生のお誘いを断っていたのですが、蛇年の先生は案外粘り強く
「絵の道に進め」「いや進みません」「絶対に進め」「獣医になります」
というやり取りを1年以上続け、最後は母親まで説得されて根負けし、私はついに「画家の道」に進むことを決意しました。
それを決意したあとの森岡先生の美術の授業で描いた作品です。
土を求めて 1974 小川 淳
自分でもびっくりするような出来栄えで、森岡先生の私の進路についての確信を一層強めたと思います。
しかし絵の世界は、私にとってはまったく先が見えない世界でした。