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絵の道に進む [アート 現代美術]

 さて、私が観念して森岡先生に
 「分かりました。絵の道に進みます」
と言うと、すかさず森岡先生からは
 「東京芸大へ行け」
と言われました。

 私はそれに対して
「えっ、そんなことまでは約束して無い・・・」
と、とても困惑しました。

 その困惑した気持ちが収まらないうちに、さらに別のところから

 「天井画をやれ」

という声がなぜか胸の中に響きました。

 「何だろう、この声は・・・」

と思いましたが、その時はその意味は分かりませんでした。

 その後私は森岡先生や河合塾の原先生、また東京の新宿美術学園の壁下先生らの指導のおかげで、無事東京芸大に入りました。

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受験期の自画像 小川 淳 1977

 しかし合格したその喜びもつかの間、K君を通して「現代美術」の話を聞き、特に絵画におけるその絶望的な状況にどのような答えを出すべきか分からず、次第次第に絵が描けなくなって行ったのです。


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森岡完介先生との出会い [アート 現代美術]

 小学生の時に百科事典でポロック氏と出会ったこともいつしか忘れていました。

 絵を描くことは好きな少年でしたが、画家になろうと思ったことはありませんでした。
 それは先が見えない危険な道でした。ただ

 「自分が一番得意なものは何だろうか? それは絵かも知れない。
 自分の絵は日本ではどのくらいのレベルになるのだろうか?」

 と小学生なりに思ったことはあります。

 14歳になった中学二年生の時、地元大府中学の美術の先生として森岡完介先生という方が新しく赴任してこられました。その方は、新進の版画家として版画界で活躍中の方でした。

P00660.jpg

人は何処へ 森岡完介 1976年ころ

 絵が好きな私は、剣道部の友人らと一緒に、森岡先生が担当している週一回の美術クラブに参加しました。
 森岡先生は、そこで私に「絵の道」に進むことを勧めました。

 獣医を志していた私は森岡先生のお誘いを断っていたのですが、蛇年の先生は案外粘り強く

「絵の道に進め」「いや進みません」「絶対に進め」「獣医になります」

というやり取りを1年以上続け、最後は母親まで説得されて根負けし、私はついに「画家の道」に進むことを決意しました。
 それを決意したあとの森岡先生の美術の授業で描いた作品です。

小川 淳 土を求めて 1974s.jpg

土を求めて 1974 小川 淳 

 自分でもびっくりするような出来栄えで、森岡先生の私の進路についての確信を一層強めたと思います。
 しかし絵の世界は、私にとってはまったく先が見えない世界でした。


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ジャクソン・ポロック [アート 現代美術]

 それが私の「現代美術」との衝撃的な出会いでした。

 それを教えてくれたK君にはとても感謝しています。
 それが私が「現代美術」というものに目を開くきっかけになりました。

 私にとって、それはまったく想像を絶するものでしたし、決して嬉しいものではありませんでした。
 つらい受験期を終え、「これから絵を頑張るぞ!」と希望に胸を膨らまし始めた矢先に

「絵を描くな」

 と言われたような衝撃的な事件でした。

 なにやら状況は私に絵を描くことを放棄することを求めている・・・。

 しかし、それがなぜなのか分からない・・・・

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No.5 J.ポロック 1948

 その時、彼が見せてくれた画集の中に、画面いっぱいに絵具を飛び散らせている絵がありました。
 その絵については、遠い記憶がありました。
 たしか小学校1年生のころだったと思います。小学館の百科事典を見ていた時に、「アクションペインティング」(正確に覚えてはいない)という項目があり、そこに写っている男の人の写真を見て幼心に

「ああ、この人と戦わなければいけないんだな」

と思ったことがあります。

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 それは、少し頭が禿げ上がった、ごつい感じの男の人がペンキの缶を持って、そこから刷毛で床に置いたキャンバスに絵具を滴らせている写真でした。
 あとでジャクソン・ポロックというアメリカの抽象表現主義の画家だったと分かったのですが、もちろん小学1年生の私には、それが誰だかわからず、何の記事かも本当は分からないままに、

「この人と戦わなければいけない」

と思ったのです。
 その時は、自分が将来《絵の道に進む》こともまったく考えていませんでした。


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「現代美術」との出会い [アート 現代美術]

 私が「現代美術」に直面した時の感覚が、まさにそれに近いものでした。「えっ、絵を描いちゃいけないの?」という衝撃。そしてそれはSF映画でもなく、夢でもなく、現実の出来事でした。

 そのため、私は芸大卒業後も何度も「美術」をやめたり戻ったり、またやめたりを繰り返し、飛び飛びの「点線」のように「現代美術」と関わり続けて来ました。


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コレオーニ将軍騎馬像デッサン 小川 淳 1978

 このデッサンは、私が芸大に入って最初の課題で描いた騎馬像です。これを見て、褒めてくれた芸術学科のK君という人がいました。彼が最初に私に「現代美術」を教えてくれました。
 学科は違いましたが同じ寮に住んでいたので、前期のはじめはしょっちゅう美術の話をして盛り上がっていました。

 そのK君から前期の終わりころ、

「小川っ、ちょっと話したいことがあるんだけど。今ね、小川みたいな絵を描いていちゃいけないんだよ・・・」

と言われたことがあります。彼は芸術学という「美術史」や「美学」などを学ぶ学科の人でしたので、いち早く当時の最新の「現代美術」の動向を知って私に教えてくれたのです。1978年7月でした。

 その時彼から見せられたのは「アメリカ現代絵画」のたくさんの画集でした。どの画集も、ほとんど何も描いてないというか、余白だらけのもので、芸大寮のラウンジ204で、無言でひたすらその画集を二人で眺めていたのを思い出します。

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無題 1966 アド・ラインハルト


 これは画像のミスでも広告でもなくこういう絵なのです。

言葉が無かったというのが正直なところでした。
 これは「絵を描くな」ということ・・・・なのか。
 K君は、私に「絵を描くな」と言ってるのではありませんでした。そうではなく

 「小川は、美術界の現実を知らないだろ。これが今の現実なんだ。」

 彼は真摯な友情から、私に世界の美術界の現状を教えてくれたのです。




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あらためて「現代美術」 [アート 現代美術]

 私の40年の画業は、いつも「現代美術」が隣にありました。
 今、61歳になって、過去を振り返ると、ようやくそこにそれについて落ち着いて考えられる自分がいます。

 ああ愛すべき「現代美術」よ。
 あたなはいつも私のすぐ近くにいた。
 私があなたに出会う前から、ずっと。
 私はあなたを愛さずにはいられない。


 「美術をやるつもりでその世界に入ったら、そこは『現代美術』という世界だった。」

 東京芸大油画科に入った時の、その違和感をどう説明すると良いのでしょうか。絵を描いていてもしょうがないのか・・・?と。

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当時のデッサン 大学に入る直前 小川 淳  1977

 子供のころ、テレビで「華氏451度」という映画を見たのですが、それに近い感覚でした。「本を読んではいけない」世界に生きる未来の人々の話です。

 「本が発見された場合はただちに『ファイアマン』(fireman、焚書官または昇火士)と呼ばれる機関が出動して焼却し、所有者は逮捕される」。(レイ・ブラッドリ原作 F.トリフォー監督 1953年)

 その映画を見た夜、私は「服を着てはいけない」世界に生きている《夢》を見ました。
 夢の中で恐怖で逃げまどいながら、目が覚めたら汗だくになって、着ているものをすべて脱ぎ捨てて素っ裸になっていました。


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