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「無意識界」地獄 [アート 文学 宗教]

 このエピクロス氏は、大体二百年くらい地獄にいたらしい。
 どういう地獄か、というと「無意識界」といって、”自分が死んだ事すら分からない世界”だったようだ。
 普通の人間なら、あの世の存在を信じていなくても、食べ物を食べずに何年も平気だったり、誰に声を掛けても聞こえなかったり、ということが数十年も続けば、「いい加減何かがおかしい・・・」と思い始めるのだが、エピクロスのような、筋金入りの「唯物論」者は、その反作用が二百年も続くのだ。

 「死んだら何もかも消滅する」ということを、本当に固く信じていたなら、死んでも意識があるとなると、「俺はまだ死んでいない」と思うらしい。「では、この状態は何なのか?」と自問自答するのだが、答えは得られない。
 しかも彼を信じる人が、次々と彼の後を追って来るのだ。

 問題は、その人が地上で成功していなければ、「俺、何か間違ったかな?」と、反省できる可能性があるのだが、成功してる人は意外と反省ができなくなっている。ここが怖いところである。失敗は人を謙虚にするが、成功は時に人を盲目にもする。

 このエピクロスという人は、結構成功した人のようで、アテネに家を買い、学校を開いて、彼を信じる人たちとの共同生活をしながら、エピクロス学派を広げていった。と言っても、ほぼそこに引きこもって心の平安を守っていたようである。
 学校は、300年後のシーザーの時代もまだ14代目の校長が続けていたらしい。
 それだけ繁盛したとなると、次々と師のエピクロスのあとを追ってお弟子さんが次々と地獄の「無意識界」に直行して行ったであろう。
 指導者が間違った場合は、普通の人が間違えた時以上に反作用が大きくなる。しかもそれが地上で成功すればするほど、死後の苦しみもどんどん大きくなる。まさに地獄だ。それだったら成功などしない方がよっぽどましだろう。

Gustave_Dore_Inferno32[1].jpg

「神曲」では、地獄篇第三十二歌 コキュートスの氷漬けの地獄が「無意識界」のイメージとしては近いように感じるが、この「無意識界」の部分はほとんど書かれていない。  哲学界や宗教界の指導者で、間違った教えを説いた場合は、仏教では「阿鼻叫喚地獄」という地獄に行く。その先にはさらに「大阿鼻叫喚地獄」というものもあり、そこには仏陀を傷つけたものが行くことになる。

 日本でも、比較的多くの人に影響を与えている解剖学者のY氏なども、霊魂の存在やあの世の存在を否定し、「脳の作用」に帰しておられる。
 僕が非常勤講師をしているN学芸大学でも、数年前にこのY先生をお呼びして講演会をしていただいたが、この方や、この方を持ち上げている方々なども、死後集団で「無意識界」に行くことになるのではないかと心配している。愛ある方なら、彼らのミスリードを止めてあげて欲しいと思う。
 僕は、愛が足りなくて、その講演会に行かなかったが、行った学生に「Y先生の話、どうだった?」と聞いたら、「すみません、眠ってしまいました」との答えだった。日頃は話の最中に眠られると困るのだが、このときは「良く眠った、えらい!」と言ってあげたかった。
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あの世からの催促 [アート 文学 宗教]

 さて、ダンテの「神曲」で、むりやり辺獄(リンポ)の住民にさせられてしまった偉人の中で、一人だけ本当に地獄に行ってしまった人がいるらしい。
athens[b].jpg

ゼノン、エピクロス、アヴェロエス、ソクラテス  

 この中で、エピクロスは本当に地獄に行ったらしい。
 自分で見てきたわけでもないので、らしい、としか言えないのだが。
 この絵を描いたラファエロも、このエピクロスクロスだけを他のみなさんに背を向けさせている。
 「快楽主義者(エピキュリアン)」とも言われるエピクロスだが・・・。

Epikur[1].jpg

 エピクロスは、紀元前3-4世紀のギリシャの哲学者で、エピクロス派の創始者である。
 彼は、先輩であったプラトンの「霊魂不滅」の考えに対抗して、死んだら何もかも無くなると考えた。
 死に際して、人間は原子の分解をもって亡びてしまい、これによって、人間はもっとも不愉快な死という災いを乗り越えられるのだ、という「唯物論」を説いたのだった。
 彼は「死について恐れる必要はない」と言っている。その理由として、”死によって人間は感覚を失うのだから、恐怖を感じることすらなくなるのであり、それゆえ恐れる必要はない”と主張している。
 
 「死ねば自分という存在はまったくなくなる。」という考え方だろう。
 先日、僕の隣に住むTさんも「人は死んでも魂は生き続けるような気もするし、何にもなくなっちゃうようにも思うし・・・どっちかな?うーんわかんない」と言っていた。(隣人と、そんな話をしょっちゅうしているわけではないのだが。)

 「死んだらすべてが無くなる」という考え方は、僕には理解する事が難しい考え方なのだが、逆にエピクロスにとっては、「肉体が死んだ後も,魂が存在し続ける」という考え方はなかなか理解できなかったのだろう。

 人が死んでも魂は生き続けるかどうか、について、僕にはこんな経験談がある。
 僕の父は、自殺だったのだが、死後しばしば僕のところに来ていたような気がする。
 「神曲」の中でも、”自殺者の魂は、永遠に木となって・・・・”と書かれているように、自殺者はキリスト教では天国には行けないことになっている。
 それで、僕も父を何とか助けてあげなければ、と考えて、いろいろ手は打ってみた。何かというと、死んだ人を弔う行事で、いわゆる「供養祭」なのだが、そこで供養をすると明らかにあの世の父の方に反応がある感じがした。いや、本当のことを言うと、あの世の父の方が、僕に供養をして欲しくて、催促に来ていた、といった方が正確かもしれない。

 僕としては、父の自殺のことは、一刻も早く忘れたくて、申し訳ないけれども思い出さないようにしていた。 しかし、時々こちらの意に反してとても強く思い出される事があるのだ。そんな時は、
「やだなー、困ったなー」
と人知れず苦しんでいたのだが。
 そんな時、ふとカレンダーを見ると、「春分の日」が数日後にあったり、「お盆」が近かったり、というように、春や秋、またはお盆の供養祭の行事の直前に「父の訪問」がある、ということが父の死後数年間の間に何度か続いた。
 それで、
「ああ、そうだったね、供養だったね、忘れてた、分かった」
という感じで供養してあげると、スッキリした感じで
「忘れんでくれよー。頼むぞー。」という父独特の言い方というか感じを残して毎回終わるのだった。

 こんなことを五年くらい続けただろうか。ある時からそういうことが無くなって行った。それで僕は、
「お父さんは、やっと天国に行ったのかな」
と思ったのだ。
 そういうことなどもあるので、「死んだら何もかも無くなる」ということはなかなか信じられないのだ。
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